リクエスト短編集

□親と子の歩み寄り
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「だーれだ」

背後から己の目を覆い隠しているその手は細くしなやかな指が印象的で、触覚としては少し冷たくもあったが、心を温かく包み込まれているような安らぎの顕現そのものである。

「は……はい?」
「余は誰だと聞いておる。早く答えよ。ぶっちゃけ、爪先立ちで今結構辛いのだ」

そして、凛とした声が響く。
淑女たる落ち着きの中にも、幼い子供のような無邪気さをはらんだ女性の物だ。
四六時中聞いていたところで、飽きるどころか溺れ死ぬ自信を刻みつけるような、絶対的なそれ。
そのような声の主に、ワイザーはたった一人しか心当たりがないのだが、手も声も、提供された条件の全てが自分のよく知る彼女のものとは矛盾していた。
というより、先ほどから不慮の事故のように自身の背と接してしまっているまあいわゆる女性であれば程度の差こそあれ張り出しているはずの後ろの人物の二つ揃いの至宝が、声とか手とかその辺の一番大事なはずのヒントを打ち消すかのように主張を続けていて、とりあえず今すぐ死んで詫びたくなる。

「おいおい……まさか分からんと言うのではないだろうな?」

ワイザーが返答に窮していると、声には微かに落胆が滲み始める。
それが心の柔らかい部分へとクリティカルに突き刺さり、なおも言葉を詰まらせる。
しかしこれでは埒が明かない。この辺りで動いておかないと、背中に当たった柔らかさに心身まとめて押し潰される危険があった。
用事があるからと実家に呼ばれ、母の部屋に足を踏み入れてすぐの襲撃がこれである。まだ幸せの内に死ぬのは早いと、凍り付きかける己に鞭打ち。

「は……母上、ですか?」
「ふふふ」

覚悟とともに吐き出した解答には、とても楽しげな笑い声が返ってきた。
そしてゆっくりと手が外される。

「正解だ」

得意げな声と共に背後からひょいと飛び出してきた人物は、口元に手を当てくすくすと上品に笑い。

「ふふ……いやー、お前なら分かってくれると思ったよ。流石は余の子だ」
「な、な」
「何故かって? たまには良いだろ、こういうのも」

あっけらかんと、たわわな胸を張って言うのは、奇跡に近い美女である。
飾り気のない黒のワンピースから覗く手足は細く雪のように白いため、か弱い印象を一時は与えるも、知性と冷酷さを併せ持った涼しげな面持ちが小気味よくそれを捻り潰す。
勝気な笑みが色気の中にもギャップを醸し出し、それがまた魅力的だ。
美女──ホーティは笑みを絶やさぬまま、ワイザーの首に腕を絡ませて体を密着させ、顔を覗きこむ。
お陰で彼は身を強張らせざるをえなくなる。先程よりも感触はあからさまになり、そこに視覚も嗅覚も加わるときた。
色々な物に耐える息子へと、ホーティは優しく言葉を掛ける。

「一応、このように成長するはずだった姿を取っておる。どうだワイザー、中々の美人だろ?」
「は、はい。その……」
「うん?」
「お、お美しいと、思います」
「うふふ。お前は素直ないい子だなあ」

紅を差したように赤い唇が、小気味よく動く様に見とれつつ。ワイザーが正直な感想を絞り出すと、ホーティは褒美とばかりに頬を撫でてくれる。
蟲惑的とも言えるその手つきに、ワイザーは目の前の存在が母親だということを忘れてしまいそうになる。
耐え切れず、いっそ殺して下さいと叫ぶ前に、母の顔がにやりと意地悪いものに変化して。

「そうだ、ワイザーよ。シャロンと余を比べたら、どちらがお前の好みになるのだ?」
「はいぃいいぃいいいいいいいいいいい!!!?」

至近距離で途方もなく絶望的な絶叫が上がり、数瞬遅れてそれが自分の物だと気付く。
聞き間違いかとも思ったが、目の前の母親はむやみやたらとにやにやとした笑顔を貼り付けている。
つまり、本当に彼女は無茶な選択を強いている。
どちら。シャロンか、この、大人の姿となった母親。
母の瞳は期待の色を浮かべて黒曜石のように輝き、自分を捉えて離さない。こうあっては、中途半端な回答をすれば即失格である。
空気を読めば『貴女です』と微笑み答えるのがベストではあるのだが、しかしおいそれと決めることなど出来なかった。
妖艶な美女達は、片や背筋の凍る被支配欲をそそり、片や誠心誠意仕えて甘えてしまいたくなる被保護欲をそそるときた。
甲乙つけがたくどちらもおいしく、出来れば両方に挟まれて息絶えてしまいたいと浮かぶ、煩悩まみれの己が憎くて憎くて仕方がない。
そんな風にして、処断を控えた罪人ばりの表情のまま凍りついたワイザーだった。
しかし、少しの間を置いてホーティが小さく吹き出したことにより、その硬直も解かれることとなる。

「あっはっは……冗談だよ、そんなに困ることはなかろうに」
「ひ、人が悪いですよ……母上」
「なあに、息子で遊ぶのも母の特権じゃて」

ふふ、と最後に軽くワイザーを抱きしめると、ホーティはするりとその身を離してしまった。
若干感触が名残惜しくもあったが、悪戯を咎めるような渋い顔で取り繕うワイザーである。
流石にこれ以上続けられると、母親に抱く感情としては酷く場違いな物を飼うことになるだろうという確固たる予感があったため、むしろ内心ほっとしていた。

「最後ロォに見てもらってから、城の皆に見せて回ろうと思っておってな」
「……あの、母上、それは少し考え直した方が」

恐る恐るといった息子の進言に、母親は僅かに眉を顰めて返す。

「何故じゃ。ロォだけのけ者にしては可哀想だろう」
「いえ、その……非常に嫌な予感が」

と、口ごもっている間に。


「おーふーくーろー、用事って何やのー?」

扉が開かれ、媚びと過剰な親愛と、それと何らかの期待が込められた甘ったるい声。
声と含有成分表は全く同じであろう表情を浮かべたまま、部屋に足を踏み入れたのは勿論のことロォである。
兄の登場にワイザーが不愉快そうに鼻を鳴らし、愛息子の一人へとホーティが何らか言葉を発する──いや、いっそもう二人と目が合うよりもその前に。

「結婚して下さい!!!」
「は」

持ち前の俊敏さを活かし、ロォは迅速な動きでホーティの足元にて、一部の狂いもない美しい土下座を披露した。
目をぱちくり開閉させるホーティだった。そして、あいまいに困ったような笑みを浮かべ、その場にしゃがむ。

「おーい、悪いが余は」
「お袋やろ!? んなこた臭いではなっから分かっとる! 見損なわんといてくれるか! オレがお袋以外の人に求婚するわけないやない!!」

何かそら恐ろしい事を力いっぱい、土下座しながら叫ぶロォであった。
がばりと身を起こし、ホーティの足に縋りつくその目は忠犬を通り越し、最早ストーカーじみた妄念を宿している。

「頼むお袋結婚してくれ! オレはあんたに会ったその日から今日のために生きてきた言っても過言ではないんや! 元のちっこいお袋も大好きやけど世間体考えるとやっぱこっちでもいいわ! むしろいい!! もうなんつーの!? 好みとかどストライクとかそんなん通り越して運命の人に違いないから! ええよええよめっちゃ美人やん! めっちゃ大好き! どこもかしこももーったまらん! お袋どうかオレを幸せにして下さい! お袋といえば黒色やけど純白のドレス着せて慎ましく式を挙げるってのも想像するだけでもうあかん! 堪らん! 死ぬ!! ああでももし結婚が無理ならオレと弟でも妹でも作」
「気色悪い!!!!」

それがどちらの台詞であったかなど、今となっては定かではなく。
同時に拳なり足裏なり、思い思いの手段でロォを黙らせた親子の息は、それはそれはぴったりな物であった。


完全に伸びたロォを見下ろし、ワイザーは溜息を吐いた。
彼の正直さかつ実直さには、かねがね少しばかり見習わねばと憎からず思っていたのだが、まさかここまで重い病気であったとは。
ひとまずマリアに告げ口しておこうと心に決める。
流石の良き母親たるホーティも、息子の行きすぎた愛情表現に戸惑いを覚えたらしい。
小さな顎に手を当てて、物憂げな表情を作っていた。

「むー……これは何だかまずいなあ」
「まあ恐らく、ほぼこいつ限定の話になるとは思いますが……」

残念そうにロォを見下ろしながら、ぼんやりと呟いたワイザーの言葉に、ホーティは何やら心得顔を浮かべて。

「では」

言葉と共に、パチリと、気軽に指を鳴らす音がした。
何気なく母の方を振り返ると、生きながらにして死後硬直を体験することが出来た。

「次は、こんなのでどうかな」
「…………は」

母上、と呼びたかったのだが、どうもニヤリと微笑むその姿に相応しいとは言えず、ワイザーはその単語を最後まで口にすることが出来なかった。
堅いダークスーツを身に纏い、やや長めの黒髪を一つに縛った──線の細い美青年である。
端正な顔立ちを言い知れぬ自信で満たし、皮肉気に口の端をにっと上げている。
やはり妖しい魅力を振り撒いているものの、それは火遊びに憧れる女性も、そうでない女性をも虜にしかねない万能さであった。

「ふふふ。どうだ、ワイザー? お母さんはお父さんだぞー」

よく通る澄んだバス・バリトンで、おそらく母親である彼は両手を広げ、そう語る。
思わず頭を抱え、全て見なかったことにして深い眠りについてしまいたかったが、得意げなホーティから目を逸らすことが出来ずに堪えるのみであった。

「これなら流石のロォでも口説いてこんだろうし。我ながら良い考えかもしれんなあ」
「代わりに……女性の魔物達が、放っておかないと思うのですが」
「ほう……それはそれでアリだろう?」

言って品良く、笑い声を洩らすホーティ。しかし、それも長くは続かず。


「匂いを嗅ぎつけお待ちかねの私がやって参りましたさあ一発」
「言うまでもなく気色悪いわこんボケが!!」


何故か沸いた害虫を駆除するために、鬼の形相で元の姿に早戻った。
因みにその瞬間、ワイザーは全力で部屋の隅に逃げた。



全てが片付き、部屋にはきれいに伸びたロォと、見る影もなくボロボロの害虫が転がることとなった。
見るも無残に被害は甚大である。親子の精神的疲労といった意味で。
ホーティはすっかり姿を変える気も失せてしまったらしく、本来の姿でどんよりと落ち込んでいた。
それを宥めるためにと、ワイザーは母の側にしゃがみおずおずと頭を撫でたりと、見事なまでにおろおろしていた。
何の効果も無いかと思われたものの、息子の誠実な行動に、ホーティも多少心も癒されたらしい。
しばらくすると、情けなさそうな落胆のため息をこぼし言う。

「うう……お母さんはなあ、お前たちに抱えて貰ったりしゃがんで貰ったりせずとも、苦なく話など出来るようにと思って、大きくなってみたというのに……」
「ああ、なるほど」

過度なスキンシップを仕掛けてきたのも、全て目線が合うことを自慢するためであったのか。
母のいじらしさに、自然顔が綻ぶワイザーであった。

「しかしです、母上」

どうせこの場には、意識を保った者など自分と母のみである。
そう思い、ワイザーはホーティを抱き上げ、恥ずかしげもなく顔を寄せる。

「貴女を抱える息子の喜びを、どうか奪わずにいて下さい」
「むう」

拗ねたような母の顔が愛おしく。
たまに二人きりの時に彼女がそうしてくれるように、小さな額に口付けた。




「ロリコンばっかじゃねえかこの城」
「失礼ね! マザコンと言いなさい!」

そうして、外でこっそり見守っていた二人が、おおよそ不毛な言い争いを開始することに。
 

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