リクエスト短編集

□唾棄すべきラブコメ的致傷罪
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「……あー」

物音がしたわけでも、嫌な気配を察したわけでも、体調に異変があるわけでもない。魔王に状態異常が効かないのは古今東西のお約束なので、その辺りは万全である。
それなのに魔王――アルハインは何故か真夜中に目を覚ました。
陽が昇るにはまだ早いようで、窓は一面漆黒に塗りつぶされたままである。
それは部屋の中もほとんど同じ。寝台の側に置いている魔術の灯りが、唯一その周囲を薄い白に染めている。
それら全ての色彩に、眠る直前目にした時からの変化はない。


「はー……」

しかし、目覚めてしまったものはどう詮索しようと仕方がない。
仰向きに寝ころんだまま、アルハインは気の抜けた息を吐き出した。
寝起きだというのに些かの眠気も感じられず、意識が妙に冴えているのは少々不思議な感覚ではあったが、あの嫌な灰色がいないというその事実だけで何も危惧すべき事態は起こっていないと判断出来た。
とりあえず、少々目も暗闇に慣れてきたとはいえ、起きてするべきこともない。
しばらくこのまま大人しく睡魔の襲来を待とうかと、何とはなしに寝返りを打って。

「……アーさん?」
「…………あ?」

同じベッドのすぐ隣。
そこに当たり前のように、彼女が寝転んでいた。
何故ここにいるんだという絶対的な疑問を強靭なまでに撥ね退けて、そこにいるのはいつもの寝巻に身を包んだ、いつもの彼女。
ただし暗い青の瞳には恥じらいと艶が絶妙にブレンドされており、瑞々しい唇も、微かな桃色に染まった頬も何もかもが、押しつぶさんと迫る闇にも負けずに輝いている。
つまりいつもに増して可愛らしい。
今すぐぎゅっと抱きしめ愛でることが可能である、この僅かな距離が逆にもうもどかしい。
彼女に感じるはずなど無いと思っていた、女性の色香を知覚だか錯覚させる程には可愛らしくて堪らない。
こうして、変わり映えのしないはずのその姿が、時と場合と状況で驚異的な破壊力を持ち得るのだと、彼は有り難くも学んでしまう。冴えていたはずの頭が一気に茹で上がり冷やされた。

「どうしたの? 眠れないの?」

そう言って、彼女はただでさえ近くにある顔を、一層こちらに近付ける。
凍りついて逃げることの出来ないアルハイン。柔らかい髪に頬を撫でられ、ふんわりとした石鹸の匂いが鼻腔をくすぐり、呼吸のリズムを狂わされても、無抵抗でいるしかない。
五感の全てが彼女と認め、心身が彼女を求めてやまなかった。
しかし行動に出る勇気が無論足りない。
やはり自身に出来ることなど、せいぜいその場に射止められながらも、触れたい欲求を抑え込む程度である。

「……トア、さん何で」
「あ、あの眠れないなら……その……私も、まだ眠くないし」

疑問の声を遮った彼女は何やらもじもじと丸くなり、自分の袖を掴んで一言。

「……いいよ?」

恥ずかしそうに目を伏せ、顔を赤らめ、そのたった一言を絞り出した。
何がいいんだ何がとツッコミを入れるのは、きっと男としてはとても野暮な話だろう。
夜半寝台の上でいい年をした男女が寄り添い何をするかと言えば、まあ答えはほぼ一つである。
『あり得ない!』。そう叫ぶその前に、捨て去るには重々しい妄想が鈍る頭の大半を占め始める。
討ち払おうという努力も虚しく、トアに袖を弱く掴まれたままだしで、最早覚悟を決める時は訪れていた。
自分が何をすべきであって、一体誰の名前を叫ぶべきか。

「パラケスス!!!!」


と、次の瞬間に飛び起きた。



「なんじゃい、つまらん」

起きた先は、煌々と明かりが灯った室内だ。
ぜぇはぁと肩で息をして痛む心臓を抑えて耐えるアルハインを、心底残念そうに見つめるのは夢で名前を呼ばれたパラケススその人である。
寝台の側に突っ立って、にこにこと怪しく杖を振り回している。
視界の隅にその姿を捉え、彼はげんなりとした表情を隠そうともしない。
ひとまずその害悪は放置して、部屋を見渡すアルハイン。
ベッドの上は勿論のこと、どこにもトアの姿、彼女がいたという名残すら見当たらない。

つまり、やはり、あれは夢。

一抹の無念さをひとまず忘れ、ほっと胸を撫で下ろした彼に、放置されていたパラケススがぽつりと声を掛ける。

「全く。もう少し長く儂の術に掛っておれば、幸せになれただろうに」

つまり、限界であった。

「貴様は!! 貴様は一体何をしやがっているのでしょうかねえぇえ!?」
「何って……寝ぼけておるのか若よ」

身長も体格も勝るアルハインに胸倉を掴まれ、憤怒の形相で迫られてもなお、諸悪の根源は平然とした態度を崩さない。
それどころかますます笑みを深め、孫に小遣いでも渡そうとする優しい老人の顔になる。
思わず怒りも鈍るアルハインであった。言葉に詰まる彼を見つめ、パラケススはのんびりと声を上げて笑う。

「お嬢ちゃんを材料にしたそういう夢でも見せてやったら、一体どんな反応をするのかのー、手を出すのかのー、それともビビって逃げちまうのかのーと、にやにや見させてもらっただけじゃわい。それくらい若とはいっても、分かるだろうに?」

そして笑みを崩さぬまま、老人はそんなことを、いけしゃあしゃあと言ってのける。小銭をいい笑顔で投げつけられた気分になれた。
思わずパラケススから手を離し、アルハインはへなへなと床に崩れるように座り込んだ。
途方もない疲労感のためか、涙すら流れない。このような悪魔を前にしては、魔王といえども全てを放棄したとしても致し方ないだろう。

「本当に……貴様ら年寄り連中はろくなことをしやがりません……」
「ふぉっふぉ……あれと一緒にするでないわい」

心外そうな抗議を受けるが、反論の余力が無い。残念なんだか幸いなんだか。顔を覆って涙なく泣き濡れるアルハインであった。


しかし内心では、確かにもぎ取った戦果に喜び湧いていた。
夢とはいえトアに手を出してしまっていては、以降どのような顔をして接していけばいいのかさっぱり分からない。
その誘惑に打ち勝ったのだ。
尻込みしたわけでは決してなく、今回は見事理性の勝利である。この尊く気高い魔王たる自分自ら、自分を褒め称えてやってもいいだろう。
しかし先日現実に手を出して、額に……してしまったことは、とりあえず一旦不問としておこう。
あれを蒸し返した日には、心が修復不可能なまでにぽきりと折れてしまうことが確定しているから。

「しかし若が悪いのじゃぞ。お主らが見ていて腹の立たないお付き合いとやらを嗜んでおりさえすれば、儂もかような嫌がらせをせずに済んだというのに」

打ちひしがれるアルハインへと、パラケススが労いの言葉を掛ける訳もない。
穏やかな声の調子はそのままで、八つ当たりとしか思えない台詞をぶつけてくる。どこまで自由なんだこの年寄りは。
キッと睨みつけてはみたものの、柔らかい微笑みを向けられて言葉に詰まりそうになる。
自分の方が立場上偉いのだからという周知の事実がなければ、きっとその優しい笑顔のままでねちねちと、謂れの無い誹謗中傷に晒された事だろう。
なんとか気力を奮い立たせ、アルハインはようやくパラケススへと攻撃を開始する。

「喧しいですよ……っ! もう、今後は何が何でも引っかかってやるものですか!」
「ふーむ。仕方ないのう。では……」

目を閉じ、パラケススは重大な独り言のように呟いた。

「嬢ちゃんにも似たような術を仕掛けて来たので、今度はあちらの様子でも見に行くかのう」

そして、次に目を開いた時には、部屋に自分一人しかいなかった。
視線だけを右に左にとゆっくり動かし、パラケススはなおざりに部屋を見渡して、アルハインが消えたことを確認。そして満足げに頷いた。何度も楽しげに。ほくほくと。


もぬけの殻となった魔王の部屋で、老人はほのぼのとした笑い声を上げる。

「と……まあ、それは冗談なんじゃがのう」

どうでも良さそうに放ったこちらの独り言は、哀しい事に誰の耳にも入らなかった。
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