リクエスト短編集

□手のかかる子程可愛いに限度があるのかないのか
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「ふっふっふ……のう、お前。一つ良いか?」

ホーティは含み笑いを漏らしつつ、男に語りかけた。
長い黒髪を一つにまとめた、気難しげに眉根を寄せる大男である。
魔王たる彼女に仕え、彼女のために生きるだけの男であった。

彼は長椅子のちょうど真ん中に腰掛け書類を捲っていた彼女を、その正面に立って見下ろしていた。
紙が擦れる音だけが生まれては消え生まれては消え、その理不尽とも取れる繰り返しのさ中であった。
崩されることのないであろうと思われた均衡だか不可侵線だかが、彼女のたった一言であっさりと取り払われた。
男は彼女の声を受け、一瞬だけ表情を曇らせる。
しかしそれもすぐ、彼女が顔を上げる寸前で元の憮然とした、何一つとて思う所のあり得ないといった苛立ちを張り付けた。それから短く鼻を鳴らす彼。

「……何か、御座いますか」

紡がれた言の葉は全く慕情の読み取れぬ、気の無い形式上の敬いであった。
しかしそれが一層彼女の破顔を深めさせる。
彼女は無言で隣の空所を穏やかに叩いて指し示した。
彼は苦々しく口元を引き吊らせるものの、大人しくそれに倣う他無い。
まずもって、慈愛の色濃い漆黒の双眸が逃げることを許さず彼を射止めている。
自身と同じ色をしたはずのその彼女の瞳が、彼には正か負か、果たしてどのように響いたのか。いずれにせよ酷く彼の心を掻き乱す物であったようだ。
彼は彼女のすぐ隣、しかしなるべく接することのない程度には距離を取って、ゆっくりと腰を下ろした。尊大に足を組み、横柄に腕を組み、それでも浮かべる渋面には覇気が無くいっそ怯え繕う獲物のよう。
彼女はそんな彼の様子には気付かぬ振りをして、いつもの調子で居丈高に語りかける。

「いやまあ、別に何とは無いが。今朝お前の部屋を通りかかったら、出ていく人影を見かけてなあ」
「ああ……」

益々気の無い返事である。
彼女はそれを受け、彼の顔を斜め下からちらりと盗み見た。
すると不安げに揺れる瞳とぶつかりその瞬間に逸らされた。何をそんなに気にかけているのだか。全く落ち着かない男である。彼女の中で小さな呆れが生まれるものの、それもすぐに別の物へと早変わる。そうしてにこやかな彼女の暖かい視線を受け流しながら、彼は固く口を噤んでしまった。

要件はその言葉の通りである。
彼女は早朝、彼の部屋をこっそりと出ていく女を見たのだ。
幸いにして向こうは彼女に気付くことなく、そそくさと姿を消してしまった。城の立地上下階に住まう魔物の誰か意外にあり得ないとは言え、顔はよく見えず数多いる魔物の誰であるのかは分からなかった。分からなければ、知りたくなるのが順当な流れと言うものだ。まして相手は彼女にとって最も近しい子供達の内、飛び抜けて内気で心の内を見せるのが苦手な彼である。
そのため彼女はまだ見ぬ孫を幻視するような、浮かれきった空気を出す。

「良い人がいるなんて余は聞いておらんぞー。ま、式なんかは言ってくれればすぐにでも準備してやるからな。どんな人なんだ? お前が選んだのだから、さぞかし」
「何か、魔王様は勘違いをなさっておられるようですが……」

彼女の台詞を遮ってまで、彼は歯切れ悪く口を挟んだ。
おまけに期待で輝く彼女の瞳が耐えられないとばかりに、両目を片手で覆ってしまう。訝しげに首を傾げる彼女であったが、一先ずは続く彼の言葉を待つこととする。

「……私の地位などを目的に、言寄る女が多いだけのことです。その内の一人で、名は覚えておりません。第一まず、あの中に特別気を掛けてやる価値のある女などおりませんので……お気遣いには及びません」
「ほう」

怒気すら絡めて言葉を吐き出し、そして勝手に息を詰まらせる彼である。
対していつもと変わらぬ優しげな声色で、相槌を打つ彼女だった。表情も僅かに眉が寄せられた程度で、さほど変化は見られない。
もっと違った反応を予想していたのか、彼は恐る恐る目隠しを剥がし、彼女の顔色を窺う。それににこりと屈託のない笑みを返してやる彼女である。
彼女は基本、子供に甘い。おおよそ九割方はどんなことを仕出かしても甘ったるく愛でてぎゅーと抱きしめてやって、残り一割でめっ、と叱ってやった時の子供の反応がどんなものであれ可愛くて仕方が無くて愛でてやる。無限に続く愛である。
しかしそんな彼女も、時と場合によっては厳しさをほんの一割程度増すことがある。

「お前、いつか刺されるぞ」
「……私に致命傷を負わすことのできる者など、貴女様以外にありえません」
「そういうことではないのだがなあ」

ぴしゃりと放った毒を受け取り、素直に落ち込む程、彼は可愛げのない子供ではなかった。
拗ねたように俯く彼を、彼女はやはりにこにこと見つめ。

「ま。余はそういうの、あまり感心せんなあとだけ」

その台詞を放った瞬間、彼は石のように固まった。

「も、申し訳御座いません……」
「これこれ、ワイザーよ。何もそう絶望的な顔をせんでも良いだろう」
「そのような顔、しておりません」
「ああ、すまんすまん。余の見間違いかな?」

命を削りつつも、なんとか言葉を生み出そうと奮闘する彼であった。額に脂汗すら滲ませている癖に、平静を装おうと目を泳がせて母の慈愛に耐えている。
背丈と恰好ばかりが一人前で、中身は色々と半人前以下である。しかし、だからこそ愛おしいのだと彼女はこっそり素直な息子へ笑みを深めた。
彼女は静かに椅子の上に立ち、彼の頭をがしがしと乱暴に撫でてやった。大人しく頭を下げ、されるがままの彼である。こうして背伸びをし、身をかがめさせてやっと手が届くような、彼との距離は確かにもどかしいものである。しかしだからと言って彼の心と距離が開いてはならないのだと、距離を詰めて内を暴かずただじっといつでも側にあるようにしなければならないのだと、彼女は常日頃心に秘めている。

「ま、寂しさを埋める方法にも色々あると思うが、独りよがりは感心せぬよ? もっとこう……駆け引き抜きで甘やかしてくれる人など、側にいくらでもおるだろうに」

独り言のように呟いた口上に、然したる反応が返って来ることはなかった。彼はただ、彼女の愛をにじっと流されるだけである。ただし彼女に不満は無かった。彼に逃げ道を与えたのは彼女自身である。
色々な物に縛られ窮屈に生き続けねばならぬのだと己を律する愛する彼が、己のために生きるたった一歩を踏み出すまでは、お互いの顔が見えないこの状態が、彼ら親子にとっては最も心地良いものであった。

「お前がちゃんと根は真面目な良い子だということは、お母さんはちゃんと知っているからな。だからもっと真面目に生きなさい。余に言えるのはそれだけだ」
「……はい」

たったそれだけの答えに、彼女はそっと彼の頭を抱きしめて、有り余る褒美をくれてやることにした。





それから幾年かが経過した。
何の因果か、親子は今も仲良く長椅子に腰かけている。
ただしその距離は昔とは異なり、二重の意味で零以下であった。

「そーいえばお前、シャロンとは何か進展などあったのか?」
「ぶっ」

平時よりも随分と弛緩しきった表情を浮かべ、母を膝に乗せて雑談を楽しんでいたワイザーが、突然の話題転換にあからさまな動揺を見せる。
かつてよりも喜怒哀楽を見せてくれる息子に、母はにやりと口の端を持ち上げた。
ようやく彼は母だけでない他者にも心を開き始め、己の好きに生き始めようとしていた。
昔と較べれば、それは随分な進歩である。顔を合わせずの会話といった一点だけが、昔とちっとも変らない。ただ、無理に変えずとも構わない、むしろこのままがいつまで経っても最も心地の良い状態であって欲しいと、彼女は密かに願っている。

因みに彼の事情は城の者全てが承知であり、その昔彼に遊ばれた女性たちが、今度は彼をからかい遊んでささやかな復讐を繰り返していたりするのだが……まあ因果応報なので彼女はあまり取り沙汰しない。


「な、何故それを……!?」
「いや、何でそんなに驚くんだ。今更だが、お前は昔から色々と分かりやすいんだよ。で、どうなんだ」
「そ、その……最近」
「うん。最近?」
「世間話が続くようになりました……母上? どうかなされましたか」
「ごめんなあ……余が……余が悪かったぁ……もうちょっと不真面目になっても良いから……」
「なっ……何故涙をお流しに!?」


昔も今も、この子は可愛く素直な、自分の愛する息子に違いない。
違いないのだが、子育てとはやはり一筋縄ではいかないなあと喜びの涙を噛み締める母であった。

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