短編その二

□パラケスス夫妻のV.D
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「ううぅああ……トリスぅ……」

頭を抱えた呻きも、もはや泣き声に近くなる。
彼は妻を愛していた。
誠心誠意、本気で、魂を捧げても惜しくないほどに愛していた。
始まりは彼の一目惚れだった。
神話の時代の話である。彼はその美貌を武器にして、あらゆる女と遊び暮らしていた。彼が少し微笑めば女はもれなく顔を赤らめ、綺麗事の一つでも口にすれば女はその身を委ねて一晩が潰れた。
どんな美女だろうと、聡明の才女だろうと、初心な少女だろうと。もれなく容易く彼のものとなった。
そんな自堕落な生活の中で出会った現在の妻、トリス。
彼女を初めて見たその瞬間、彼はありていに言えば、遅い初恋に落ちたという。
彼女は確かに美しかった。だがしかし、彼が今まで抱いて捨ててきた中には、もっとそれ以上の美女がゴロゴロいた。
だが彼の目は、彼女こそが女神であると認めていた。
それから彼は猛烈に、他の女には目もくれず彼女を口説き落とそうと躍起になった。色々な贈り物をしたし、甘い言葉を囁いて、まずは友達からと、今までの彼では考えられないほど入念に彼女にすべてを注いだ。
彼女はしかし、彼の美貌や甘い言葉には何一つとしてなびくことがなかった。身持ちが極端に固かった、というわけではない。彼女はその昔、果てしない天然純真培養の少女であった。だから彼の贈り物の、言葉の意味をよく理解できず、ひとつひとつ丁寧に尋ねてはそれを彼がしどろもどろに説明する。そんな側から見ていて哀れになるようなやり取りを繰り返した。
しかし彼はそうした中でより一層、彼女に惹かれていった。彼女は彼が思いも寄らない言葉に小首をかしげ、恥ずかしそうに顔を伏せたりもした。彼もまた彼女と少し手と手が触れ合うだけで緊張したし、『お友達として好きです』と言われてさえ歓喜の涙を拭ったものだ。
しかしそうした努力が実り、彼らは結ばれ夫婦となった。
彼はいまだにあの、彼女がプロポーズを受けてくれた日のとこを鮮明に記憶していた。一緒になってくれという彼のシンプルな言葉に、彼女は黙って頷き微笑んだ。そしてせいいっぱいにつま先立ちをして、彼のほおに口づけを……

「あああ……あの時は本当に……かわいかったなあ……」

でれっ、と相好を崩す彼である。
そんなこんながあって、パラケスス夫婦は合わせて十人の子供をなし、色々あって、なんやかんやと揉めにもめ……。
がああああ、と今度は吼えるパラケスス。
後悔先に立たずとはこのことだ。
トリスと出会って女遊びを控えてからも、彼の女性受けは極めてよく、日々様々な方向から熱烈なアプローチが飛ばされ続けた。それにトリスは最初のうちは人気者なんですねえ、と嫌味なく彼に言い放った。
彼としては不本意なことだった。もはや彼は彼女以外の女性を映す目も、口説く口も、触れる手も持ち合わせてはいなかった。
しかしそれも彼女が段々と顔色を暗くし、苦言を呈する段階にまで上りつめたので、彼にとってまた違った意味を持つこととなる。
つまり彼は妻がヤキモチを焼いてくれることが嬉しくて、わざと他の女性に気のあるそぶりを見せてみた。見せ続けた。眉をひそめる彼女が可愛くて、調子に乗って、萌え悶え、そしてやりすぎた。
彼がその過ちに気付いたのは、彼女に離婚届を叩きつけられたその時であった。
思えばあの時素直に土下座でもなんでもして、許しを乞えばよかったのだ。しかし彼も妙なところで頑固で楽観的でもあったので、妻がすぐ気を変えると思い売り言葉に買い言葉。別居生活を始めてみた。それが現在にいたる七百年、しっかり堅固に続いているのである。
妻は子どもを産む度したたかになっていった。それを十回も繰り返したものだから、もはや彼なんぞでは到底太刀打ちできない大魔王と化していた。いつの世も母は強し、なのである。
そういった理由で、彼のことを息子や娘、友人知人はみなまとめて『こと自身の恋愛に関して最高に阿呆』と評するのである。


彼は今日という日に賭けてみた。
彼女が贈り物を持って自分のもとを訪れてくれることを。そうして自分もまた彼女にプレゼントを贈って、元通りの夫婦になれる。そんな夢を抱いていた。
そう思うなら自分の方から会いに行けよと、賢明な者なら誰でも考えることだろう。だがしかし、彼は途方もない意地っ張りであった。いざ妻を前にしてしまうと心にもない嫌味が口をついて出たし、他の女で間に合っているとポーズを取ってしまった。本心では。彼は全力で彼女に甘えてみたかった。地面に額をこすりつけ、何日何月何年だってそのまま謝罪の言葉を紡いでみたかった。しかしそれができない。男のプライドだとか、見栄だとか、そうしたくだらないものが邪魔をする。
なので知の大賢者、パラケススは待つのである。
夜中からずっと待ち続けているので、そろそろ心は折れそうだが、時刻は正午ごろ。来客があってしかるべきなのはこれからだ。
彼は深くふかく嘆息する。
コーヒーでも飲んで気を落ち着けよう。そう思い彼はよろよろと椅子を立ち。

「……!」

そのまま固まることとなる。
扉の向こうの、長い廊下のその向こうから、一つの足音が響いてきた。その足音はゆったりとしたテンポで近付いてきて、そうしてとうとう彼の部屋のその前で止まった。
つまり、彼を訪れる何者かが降臨なされたということで。
彼は固まったまま、一つのどを鳴らす。妻に用意していた気の利いたセリフが飛び、もはや頭の中は真っ白だった。
時の間隙はほんのわずかなことだった。重厚な扉はノックも疎かに、勢いよく開け放たれて。

「やっほー父上生きておりますかーぁ!?」
「クソがあああああああああ!!」

部屋へと踏み込むその人物を前にして、パラケススは頭を抱えて絶叫する。
くたびれた白衣に身を包んだ、長身の男であった。ぼさぼさの金髪に、ぶ厚い眼鏡。極端に頭の悪そうなへらへら笑い。美男子と言って憚らない容姿だが、色々と残念な空気をまとっている。
無論、これが彼の妻であるはずもなく。
彼は迅速にその男に掴みかかり、吠え猛る。涙目になりながらも食らいつく。

「何の用だぁギルバート!? アメディオにでも言われて俺を笑いに来たのか!?」

しかし男、ギルバートは余裕の笑みを崩さない。へらへらと笑いながら、鬼気迫る彼にまあまあと両手のひらを向ける。

「兄者がそんなくだらないこと拙者にお願いするわけがないでござるよぉ。我らが長兄アメディオ氏は多忙を極め、今日という日に熟女を食いまくるためにと、かなりの下準備をしてスケジュールを調整して」
「知るかボケぇえええ!!」
「オウフ怒鳴らないで欲しいでござるぅ。あっあー!暴力はんたーい!母上に言いつけるでご・ざ・る・よーぉ♡」

人差し指でちょこん、と頬をつつかれて、パラケススはがくりとうな垂れその場に膝をつく。
妻の代わりにものすごく、会いたくない奴がやって来た。ただでさえ死にたい今が、より一層強い自殺願望へと変わっていった。
彼、ギルバートは彼の第四子、三男である。趣味と実益を兼ねた発明家であり、現在は……特殊な玩具制作の現場で、売らなくてもいい名を売っている。
彼らの息子、娘たちはそろいもそろって個性的だ。一人相手にするだけで、どっと疲れが湧いてくると絶大な定評がある。
母であるトリスだけが、そんな彼らを取りまとめることができる。父である彼、パラケススは日頃手元に置いているアメディオ一人ですら持て余す次第であった。
おまけに子供達はみな妻の味方である。こんな日に単体で会いたいはずがない。
彼はありったけの恨みを込めて床を叩きながら、息子を睨めつける。

「てめえ……なんでこんな時に来やがるんだ……寂しいもの同士傷の舐め合いがしたいってーんなら他に行け頼んでやるから……!!」
「あ、あー……そうでござるねぇ今日は確かにそんなイベントがあったようなないような。でも拙者はあんまり興味ないんで、構わないって言いますかぁ」

とそこで意味ありげに言葉を切り、ギルバートは爽やかな笑顔を浮かべ。

「三次元の女は九割九分クソなんで、拙者の方から願い下げでござる!」
「……」

お前に一体何があった、とは聞けない不甲斐ない父親であった。
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