魔王のおやど

□第六話
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グラスを両手で握り締め、真っ赤になって慌てるトア。
しかしパラケススは朗らかな笑みを崩さない。

「嬢ちゃんは本当に若が好きなんじゃなあ」
「?!」

びくっと過剰なまでの反応を返すトアを見て、ふぉっふぉっと笑うパラケスス。

「図星かのう。まあ、あれだけ手紙に若のことばかり書いておったら嫌でも分かるわい」
「そ、そんなにアーさんのこと書いたっけ……?」
「八割がた若の話をしておったぞ。……まさか嬢ちゃん無意識で」
「うわあああああああ!!」

まさかの真実に、心が耐え切れなかった。
高そうなグラスを持っているため、毛布に包まり逃げることもできない。
というわけで、トアは叫ぶことしかできないのだが……パラケススはそれをこの上なく微笑ましそうに見守っている。
ああ、若いっていいなあ。と年長者の余裕から来るその表情。だからこそ、余計トアには堪えた。
何かから逃げるように目を瞑り、トアがぶつぶつと唱えるのは。

「……1、2、3、5」
「あー、嬢ちゃん。素数を数えとるつもりなんじゃろうが、初っ端から間違っとるぞ。全っ然落ち着けとらんぞ」
「ううう……」

何か色々といっぱいいっぱいだった。


ちょっと指摘されただけでこの混乱具合。本人を前にして冷静でいられる保証は無い。
ましてあの時の優しい声と手の平の感触を思い出してしまえば……死にたくなるくらいに心臓が早打ちして、血液が沸騰したのかと思えるほどには熱が出た。
ここまできて、アルハインのことを特別好いていないと、言えるはずも無く。

(こ、こんな状態じゃ、アーさんに会えないよ……)

トアは部屋の主が現れないことを、必死に祈った。
もし顔を合わせてしまえば、赤面どころの騒ぎではない。そんな奇妙な確信があった。


とはいえ、相手はアルハインだ。
空気を読むというスキルに欠け、絶妙のタイミングを図ることには定評のある、彼。
そんな彼が、今トアの前に姿を現さないわけがなく。


扉の開く気配も足音もなく、その声はあろうことかトアのすぐ側で発せられた。

「具合はどうですか、トアさん」
「────っ?!!」

息を詰まらせ固まるトア。
ゆっくりと声のした方を見ると──パラケススの隣で、アルハインが少し寂しそうな笑みをたたえて立っていた。
それを見て、もう完全に機能停止してしまうトアだった。


全く返事をせず凍りついたトアを見て、アルハインは不思議そうに首を傾げる。
頭を撫でてみたり、顔を覗き込んでみたりもするが反応は無い。
むしろそのせいで余計にトアの硬直が酷くなり、俯いてしまうのだが、アルハインはそのことにちっとも気付かず、あたふたとトアに構い続けた。

「大丈夫……じゃないんですか?」
「心配いらんよ、痕も残らん」

パラケススのその一言で、アルハインは安堵の表情を浮かべる。
良かった良かったと微笑み繰返す彼を見て、パラケススは用は終わったとばかりに頷いた。

「では、儂は部屋に戻ろうかの。嬢ちゃんは頼んだぞ」
「はいはい。言われずとも」

そう言い残し、パラケススの姿が突然消え去った。
魔法を使った移動であり、トアにとってはお馴染みとなったものだが、この時ばかりは悲鳴を上げたくなるほど驚いた。
つまり、これからしばらくは二人っきりということで──


アルハインが主の消えた安楽椅子に腰かけ、指を一つ鳴らす。
すると持っていたグラスがなくなり、トアの両手が自由になった。
心細さを感じ、何かに捕まろうと空を切った手が、捕まれる。華奢で白くそのくせ温かで力強い、トアが大好きな手によって。
捕獲者の方を驚き見れば、彼はいつになく真摯な表情で、うろたえるトアを見つめていた。
静かな、それでいて確かな決意のようなものを秘めた瞳に射すくめられ、トアは息をすることも忘れてしまうほどに追い詰められる。
心臓がうるさく高鳴り、握られた手は火傷するんじゃないかと思えるほどに熱くなり、アルコールにも似た高揚感に襲われた。
まともな思考は最早なく、トアの脳内は視界にある金色の彼で支配されてしまった。


しばらく、広い部屋には痛いほどの沈黙が落ちた。
最初にそれを打ち破ったのは、重い溜め息を吐き出したアルハインではなく──トアだった。

「あう……?!」

アルハインに空いた片手で、首筋にそっと触れられたから。
あの首を絞められた恐怖感と、気恥ずかしさとによって、トアは混乱状態に陥ってしまう。
ぱくぱくと口を開閉させ続けるトアを見て、アルハインは泣き出しそうな微笑を形作る。

「貴様をここに連れてきた時は、まだ赤い手形が残っていたんですよ。今は、もう消えてしまったようですが……」

声がかすれていくにつれ、手を握る力が、少し強まったように感じた。
トアはその手を、思わず強く握り返した。
それが、自分にできる精一杯だと思ったから。
そうしなければ、この心優しい魔王は本当に、自分のせいで涙を流してしまうだろうと、そんな確信があったから。

「怖かった……ですよね。すみません」
「……アーさんは悪くないもん。謝らないでよ」

やっとのことでトアが搾り出した言葉は、とても小さく不明瞭なものだった。
それでも二人っきり、これだけ近くに相手がいれば、難なく聞き取ることができる。
アルハインはそっとトアの首から手を離した。代わりに両手でトアの手を握る。


「これからも、きっと危ないことはあるでしょう」
「うん……」
「この仕事を無理強いはしません。ですが」

しっかりトアの目を見据えて、アルハインが放った言葉。

「続けてくれるのならば……貴方は我輩が守ります」
「え」

聞き間違いかと、トアは目を白黒させる。
それはいつもの彼のようでいて、いつもならば確実に発しないであろう、そんな類の単語だった。
確認しようかどうかトアがまごついている内に、アルハインはもういつもの調子で気楽そうに笑っていた。
その変わり身の速さにトアは呆気に取られ、問うべき言葉を放棄せざるをえなくなる。

「これ以上何かあって、労災だなんだのと余計な金をせびられると面倒ですし」
「う……うるさいなあ」
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