VORTEX

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カナカナカナカナカナ

夏が終わり、秋の到来を告げる蜩が高く美しい声で唄う

授かった生が一つの終焉を迎えるまで、此岸に己が存在した事を、誰でも良い、誰か一人でも良いから憶えていて欲しいと願いを込めて

此岸で、そのモノの事を誰もが忘れてしまた時が、本当の命の終わり、常闇の終焉と相成るのだ、と思い出す事すら出来ぬ程過ぎ去った昔の或る日、誰かに云われた言葉が脳裏を過った


「誰に云われたんだっけ…」


その人物を思い出そうとしても、その顔には薄靄が掛っていて誰だか解る術がない


「どうかしやしたか、伽凛。」

「いや、何でもないよ。唯…」

「唯?」


伽凛の履きこなす三枚歯の下駄が、こつりと音を一つ残して止まる


「人間って狡いよね。死して尚憶えていて貰いたいなんてさ。欲深いにも程がある。」


その真意を窺い知ろうにも、彼女は少し傾いた陽の前に居て、逆光によって薬売りは伽凛の表情を読む事は出来ないが、それでも彼には彼女の云わんとしている事が理解出来た


「それが、此岸を生きる人間、と云うものだ。伽凛も、そうだろう?」

「僕は…」


この季節にしては珍しい涼しい一陣の風が、伽凛と薬売りの間で轟と叫んだ


「そうか…そうだね…」


その返事に薬売りはゆるりと慈しむ様な柔らかな笑みを浮かべる

それからは特に会話は無いが、二人にとってこの沈黙は特段息苦しいものでは無く、逆に会話が無くとも穏やかな時間が流れていて、此の美しき男と艶やかな女の関係を表している様で


「ん…」

「嗚呼。」


彼等の下駄と三枚歯下駄が同時にぴたりと歩みを止めたのは、その敷地の広さ、家紋から予想して藩にお仕えすると思われる屋敷の門


「…」


伽凛がちらりと薬売りを見ると、彼の蒼い双眼は家紋の入った門を覆う程大きい暖簾では無く、もっと、その向こうの目に見えぬ何かを確実に捉えていた


「おぉーい、薬売りぃ、お嬢ちゃーん。」


ふと聞こえた第三者の声に伽凛は気だるそうに声がした方を向くと、籠屋の下人が二人を見ていて


「…何か?」


恰も人当たりの良さそうな色を乗せて、彼女は下人に微笑む


「っ、今日は姫様の輿入れだ、薬は売れねえぜ。」

「御親切に。でも…」

「おっ。」


伽凛が云い終える前に薬売りは一瞬視線を上に向け、下人の言葉虚しく暖簾を潜る

その様子に伽凛は困った様に一つ溜め息を吐き、彼の後を追う

薬売りの下駄が階段に上がる為に、かん、と小気味良い音を発した

ぞくり、と肌を刺す様な冷気が辺りを包む

が、それも一瞬、伽凛が目を見張った時には既に晩夏独特の纏わりつく様な生温い空気へと戻った


「………ほお。」


薬売りの紫の紅を乗せた唇がにやりと歪む

芸者や雅楽奏者が広い敷地の一角に集まって居たが、それを右手に一度も見遣る事無く、薬売りと伽凛は前だけを見つめ歩みを進める


「ちょっと、加世!何時まで油仕舞ってれば気が済むんだい!」


屋敷の裏手から中年の女の怒号が響く


「行く?」

「嗚呼。」


からから、ころころと二人の下駄の音が混ざり道を踏むが、周りに居る人間は彼らに気を留める事はない

まるで二人が見えないかの様に

辿り着いた勝手口を伽凛がひょいと覗き込むと、下働きの少女が油を仕舞って居て、彼等の気配に気が付いたのか、ぱっと振り返る


「あらやだ、届け物、何かあったっけ?」


その少女、加世は薬売りの顔を見ると、少し日に焼けた頬を赤らめる

それもその筈、何せ彼の顔、纏う雰囲気は美麗につき、そして傍らに佇む女は


「いいや、僕等は薬売り。決して怪しい者では無いから安心しておくれ、可憐なお嬢さん?」


ふわりと音も無く彼女の目の前に現れ片手で加世の腰を抱き、もう一方の手で彼女の顎を軽く、くい、と持ち上げ、美しくも妖艶な色を乗せた声と表情で、加世の顔を熟れた林檎の様に真っ赤に染め上げた


「伽凛。」

「あ、あ…ああ待って待って、今日はそんな暇無いの!」


薬売りの声に因り、ぽお、と伽凛を見つめていた加世は一気に我に返り、きゃあと伽凛を突っぱねる


「…御婚礼が、あるから。」

「そうそう、真央様が塩野様の所に御輿入れなさるの。まあ、私達みたいな下働きには関係無いんだけど。」

「なら、余計、好都合ってもんだ。」

「え?」


加世を引き寄せていた伽凛を自分の隣に戻し薬売りは背中に背負っていた大きな薬箱を下ろし、畳に腰掛け


「花嫁さんに、ぴったりの薬…」


屈んだ加世の耳元で、薬売りが如何わしい薬を紹介する


「…い、いやっだぁ、もーう!でも見せてえ!!」

「はいはい。」


きゃいきゃいとはしゃぐ加世と商品を並べる薬売りを横目に、伽凛は置かれた薬箱の上に座り、一番上の右の棚から鏡と貝殻に詰めた紅を取り出して、鏡を見て鼻歌を唄い、楽しそうに、彼女は自身の薄い唇の上に薄紅をのせ、染め上げていく


「でも仕方無いのよ。お家の借金を肩代わりしてくれるって。御主人の伊顕様は良い人だけど、余り遣り繰りが上手じゃ無いのよねえ。奥様の水江様に頭を押さえつけられてるって話だし。伊國様は伊國様で、ああだからぁ、御隠居様が弟の伊顕様を跡目に選ぶのも解るんだけど…」


赤の他人だからか、此の家の不平不満を加世は吐き出す様に嬉々として薬売りに話していたが


「あ!?こんな話してたら、またさとさんに怒鳴られちゃう。」

「おや、其れは悪い事をしてしまったね…加世ちゃん。」


上唇に紅を引き終えた伽凛の柔らかくひやりとした体温の低い手が、加世の頬を撫でる


「ひゃあ…あ、あの、貴女のお名前は…?」

「うん?僕かい?僕は伽凛さ。」


そう、にこりと笑って自己紹介すると


「…成る程ね。ほら、伽凛。」

「はあい…」


伽凛はぐい、と身体はそのままに加世に顔を近づけ笑う


「話のお返しに…良いものを、御見せしますよ。」

「えー、何、何!?楽しみー!!」


薬売りが伽凛が鏡と紅を取り出した一番上の左の棚に、かたん、と指を掛けると、彼は一瞬動きを止めた

その刹那


「ひゃあ!!」

「ぎゃう!!」


がたんっ、と大きな音が辺りに響く


「ただの、鼠、ですよ。」


物音に全く動じずに云う薬売りの膝の上に加世が乗り、彼を下に潰す様に頭から肩に伽凛が乗っかっていて


「ひゃー、びっくりしたあ。」

「うう、何なのさあ…」

「伽凛、幾等軽いからと云って、肩は良いですが、流石に頭は…」

「え、あ、悪い。」


薬箱の上に戻り、彼女は何事も無かったかの様にもう一度、今度は下唇に紅を乗せ始めるが


「そう云えば。随分、鼠、捕りが。」


鼠、と云う単語に、紅を乗せた細い人差し指の動きが止まる


「多いのよ、此の家。やんなっちゃう…もう。」

「…鼠…嗚呼…」

「猫を飼えば、良いじゃないですか。」


ぺろりと真っ赤な舌を出し、紅が乗せられた上唇を舐め、呟いた伽凛の言葉は薬売りの声に掻き消され


「猫?…そうなんだけど…嫌いな人が居るからって。」

「…ほお。」


彼女の異質な様子に、二人は気が付く事は無く、加世が薬売りの膝から降りようとしたその瞬間


「加世!あんたは…こんな時に何をやってるの!!?」


先刻に聞いた覚えのある女の怒号が響き渡り、その声の持ち主の登場に、加世は慌てふためいた


「さ…さとさん!!えーっと、此れは…」

「弥平から聞いて来てみれば、こんな所で油売ってるなんて…」


さとの後ろには、この屋敷の下働きの身長が低い老人、弥平が居て、どうやらこの男が薬売り達の様子を盗み見、さとに告げ口した様で

その様子に、薬売りは手を前に付き頭を下げ、伽凛は我関せずと云った風に下唇に紅を引き終え、薬箱の上で片膝を抱え、一つ欠伸をしながら高見の見物を決め込む


「鼠捕りの薬を、御薦めしていたところで…」

「結構よ!加世、あんたは水でも汲んで来なさい!」


さとが薬売りを軽くあしらおうとしたが、彼が面を上げ、その双眼がさとの眼を捉えると、加世同様に彼女は年甲斐も無く頬に赤みを乗せたその瞬間に

ごおん、と表から何かが倒れる大きな音がして


「ぎっ…ぎゃあああああ!!!」


坂井家の一帯を包む空気が、最愛の娘を突然失った女の咆哮によって切り裂かれた


「嗚呼。憐れ、『君』は何故…」


ぞっとする程美しい笑みを浮かべた伽凛は、嘆き呻く何かに、何故か幸せそうに、何故か切なそうに呟いた

蜩が唄う

憶えていて貰いたい、と


「『君』は何を憶えていて欲しいのかい?」






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