参加企画、作品堤出
□キミの微笑みを僕にください
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※二期最終話後の設定です
雲の切れ間からまばゆい陽光がさしこんできたからか、胸の中に安堵感のようなものが広がっていくのを感じていた。
素肌を晒さぬようにしている抑圧の強い服装でも、華やいだ心に呼応する明るい色合いや風合いまでは規制しきれない。
花を生けた花瓶を抱えて病室に戻った沙慈は、ベッドの上に座り、カーディガンを羽織って、窓の外を眺めているルイスに声をかけた。
「ルイス、お花だよ」
沙慈が投げた言葉のキャッチボールをルイスが受け取り、明るく投げ返す。
「ありがとう」
その表情に浮かぶ安らかな微笑みに、沙慈の心にも涼風(りょうふう)が吹く。
春の女神の復活を祝うような、爽やかに晴れてあたたかな日。
今ですら笑いという感情を取り戻したルイスだったけれど、五年前は喉を詰まらせ、両目から滂沱(ぼうだ)のごとく涙を流し、呻き苦しんでいた。
窓ガラスに吹きつけられた粉雪は、綿雲に閉じられた陽の光を二重に遮(さえぎ)って、夜の暗さがいつまでも部屋から退(ど)かなかった。
ルイスの水晶体に映る世界はたちまち溶暗し、細かな形と距離感があいまいになり、光と影と雑多な色がまだらに混じったものになる。
世界は、その場にじっと留まったまま手を伸ばせば触れることの出来る範囲内と「その外」に二分される。
近いもの、容易に触れることのできるものは、怖くない。
理解できる、弁別できる。
だが、その狭い範囲を越えたところにあるすべては豊饒(ほうじょう)すぎる混沌であり、計り知れぬものであり、危険と一義であった。
よく見知った自室の内であっても、不可解と拒絶に満ちて、ともするとちっぽけなおのれを飲み込んでしまおうとするものなのだった。
近づけない境界線は、無数の棘を持つ有刺鉄線となって僕を締めつけていた。
深い溝を埋める工夫をしなければならない――
重苦しい状況を打破するのに必死だった。
それでも、今は違う。
見えるものと身体で知っている現実との間に微妙なズレがあって、脳が動揺している。
べっとりと平板だったあらゆる物体の表層に、微細なディティールが生じていた。
街のあちこちを、ルイスは夢中で眺めた。
家々の屋根の連なり、道路の混雑、教会の尖塔(せんとう)、そして行き交う人とエレカ。
すべてが、ルイスに、手招きをしてくれているようかのようだった。
おいで、おはいり、仲間におなり、と。
「沙慈」
あまりにくっきりと鮮やかだったので、ルイスは思わず両手をいっぱいに伸ばして空中をまさぐってしまった。
世界は、自分の短い腕が届く範囲内にしかないものではなかった。
手を伸ばせば指で触れて確かめることができる範疇にだけあるのではなかった。
その周囲に、どこまでもどこまでも、果てしもなく広がっているのだった。
「どうしたの? ルイス」
ルイスは感激と畏れのあまり泣きそうになった。
手を口に当て、口から飛び出してくるだろう言葉に備えた。
だが、言葉にならなかった。
感慨はあまりに巨大で言葉も思いも越えていたから。
「あのときの答え、伝えてもいい?」
よく見ると、左手の薬指には僕がプレゼントした金色のリングが光沢を放っていた。
この世界は沙慈が教えてくれた、人のまごころそのものだった。
他人である沙慈とルイスを信頼の輪で繋いでくれたものに他ならない。
私は助けられている。
救われている。
この巡り合わせを感謝している。
文目(あやめ)もわかぬ真っ暗闇の中いまにも消えそうな蝋燭灯りしか持っていなかったも同然のルイスにとって、優しく少し不器用な沙慈の存在は、新しい日の夜明けの太陽そのものであったのだ。
僕がルイスを見つめ、ルイスが僕をみつめる。
心の中で、なにかが繋がったのを感じた。
細い糸と糸がキュッと確実に結ばれて、ひっぱってもけっしてとれない結び目をなし、ひと連なりのレースの中に編み込まれるように。
いったん繋がれたら、もう解くのがむずかしい、解くとなにかを壊してしまう、そんな繋がりかたで。
二人の間には、それ以上必要な言葉などなかった。
僕は左手の指でゆるやかに、リングの円環(えんかん)をなぞる。
何かを語るために、何も語らない時間をつくる。
何かを飾るために、何も飾らない空間をつくる……。
「間」には、僕たちが、空間や時間の中で意識してきた、独特の呼吸や感覚が凝縮されている。
花器ひとつ、花一輪をいけること。
ルイスの声が聞こえる、ほどよい距離を意識すること。
気楽さと、緊張感を心地よく同居させること。
多様な間を自由自在に楽しみながら、ゆっくりと歳月を重ねることが出来る、潮が満ちてくるような環境。
試練ではなく幸福を。
涙ではなく微笑みを。
それが僕の望む、世界の有(あ)り方。
キミの微笑みを僕にください
(小さな明日を、君と共に歩んでいきたい)
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