共犯者[8]
あれから一週間が経過する。
学校で高杉と顔を合わせることもなく、近藤は徐々に日常を取り戻しつつあった。
ただ坂田銀八は担任なわけで土方はクラスメート、これだけは逃れようもない。
意識した目で彼らを見てしまうのは仕方ないが、人間とは便利な生き物でそれさえも日常として受け入れられるようになる。
「あいつの授業眠すぎんだよ。念仏だなありゃ」
「抑揚ねえからな先生は。そもそも本人がやる気なさそうだし」
坂田銀八の話をしている。
彼について土方と盛り上がるのは奇妙な話だが、望んでいたことでもある。
土方も一切、例の話題は持ち出してこない。
この関係にリセットがきかないのはお互い承知している。
だから口にしないことで遠い昔の出来ごとのようにし、後は時の力に委ねるのだ。
おかげで表面上はすっかり元の鞘に収まっていた。
それからまた一週間。あっという間だった。
高杉の存在は記憶の隅に追いやられつつあった。
身体を交えていた夕方の時間にふと思い出すことはあっても、受験勉強に追われていた近藤はそれどころではなかった。
「お前、英語出来なきゃこの大学は受かんねえぞ」
坂田にダメ出しをくらい、第一志望を諦めた。
代わりに他の大学をいくつか紹介してもらった。
馬鹿にしている。そう思うくらいの低レベルな大学もあったが、必修の英語が苦手だとあらばやむを得ない。
「長文読解がダメならせめて単語とイディオムだけでも覚えとけ」
他教科専門の教師にまで言われると、結構ショックだ。
もらったプリントを四つ折りにし、既にラッシュな通学鞄の中に無理やり詰め込んだ。
そろそろ帰らねばと窓の外を見やると、そこに描いていた橙色の絶景はなかった。
重々しい暗雲が垂れこめている。これは降るな。
数分経たぬうちに、水を弾く音がした。頻度を増したかと思うと、本格的に雨になっていた。
「傘、忘れた…」
迷惑な気まぐれを起こしてくれるな。銀八は大振りの雨に舌打ちをする。
天気予報も宛てにならず、チェックもしてない。
鞄で頭上だけ庇うのは見苦しい姿だ。どうせなら全身濡れて帰ってやる。
「…来てたのか」
屋根が失われたところで意外な人物に出くわし、銀八は足を止める。
「空を見たら、雨が降りそうだったから…」
彼は傘をさしていた。手首にもう一本、深緑の傘がぶらさがっていた。
ほら、と差し出してくる。
「左眼はもう痛まねえのか、晋助」
表情が伺える一番の部位がよりによって傘で隠されている。
鼻から下は、笑っているが。
「うん、もう見えなくなった」
銀八は皮膚で感覚したのだった。
視界の半分が奪われたことへの怒りだろうかと思ったが、傘をあげた彼の面相に怒りの文字はなかった。
その感情を、文字には出来なかったのだ。
左目に眼帯をして、まだ癒えてない頬の傷の上に絆創膏が貼られている。
右腕は打撲ですんだものの、左腕は骨折。首から吊り下げ状態だった。
その渇いた笑顔が何を示しているのか分からず、銀八はこの時初めて高杉にある感情を抱いた。
「行くぞ」
それが恐怖だという実感はまだなく、曖昧模糊とした胸の内を持て余しながら、銀八は高杉の前を歩いた。
今夜こいつを抱かなければ、と妙な焦燥感に掻き立てられた。
高杉の抱き続けた苦しみとは、自分を愛してくれる銀八の理想像と、自分を虐待する銀八の現実像の混同だった。
彼を前にして、高杉は盲人だったのだ。
「晋助」
制服を脱ごうとすると、腕をひかれ、寝室に連れて行かれる。
ここ数日が長く感じられた。
セっクスはしなかったし、二人の間に会話はほとんどなかった。
修羅場の罹災者だった高杉は、その余韻と静寂に包まれながら、只管ベッドの上で傷の痛みと戦っていた。
医者に診てもらって、失明する恐れもあるからと緊急入院を言い渡された。
耳を貸さなかったのは銀八だった。
連れて帰りますから、の一言で、半分ではあるが高杉に視力喪失のハンデを負わせた。
入院すると大事になるから銀八にとって不都合なのは分かっている。
だからって、人の人生を何だと思っている。
ああ、そうか。この男は、そういう男だったのだ…。
高杉は絶望した。それが最終的に決定打となった。
抱かれながら高杉は、彼に報いを与える瞬間を描いた。
「あっ、ああぁっ」
怪我人にするような愛撫ではない。
身体は快楽に蝕まれても、募るのは愛情を虫食いにする憎悪と自嘲の念ばかり。
「なに…笑ってやがる」
自分は笑っていたらしい。
「気持ちヨすぎて…」
気持ち良いと感じてしまうくらい、様々な感情が渦巻いて頭がおかしくなりそうだ。
俺とお前は、なんだろうね銀八。
「何が気持ちいいんだ、ん?」
銀八のそれが、と。
俺がお前のモノだと言えば、気がすむんだろ?
心をこめなくてもすんなり返してやれる答えに、何の意味があるのだろう。
そんなものに拘っているこの男。なんて小さな器の持ち主だろう。
「ああっ、もうダメっ」
そんな愚かしい男に執着し続けていた自分もまた然り。
ああ、似た者同士だな。
(イキそう…)
うまいなあ。この男は。
裏腹な心さえ悦ばせてしまうその愛撫は、実に巧みだ。
泥のように眠る銀八の横で、高杉は胸中の刃を静かに研ぎ澄ませていた。
(子供…)
無防備な彼の寝顔を眺め、高杉は思う。
半身を起し、自分の両掌を見下ろす。
全部で十の指の第二関節を折りたたみ、凶器を握り締める感覚を想像した。
(出来るかな…)
銀八の後頭部を睨みつけ、高杉は想像の世界で棍棒のようなものを手にし、構え、天井に翳した。
このまま急所を目掛けて振り落とす。それで…。
自分の手を汚すくらいのことをしなければ、この男から自由になれない。
否、自分の手でなければ意味がない。
「晋…」
くぐもった声に、高杉ははっとなって腕を下ろした。
「晋…助……」
恐る恐る顔を覗き込むと、目は閉じていて、口だけがぼそぼそと物を言っている状態。
なんだ、寝言かと溜息をついた。
(俺の夢、見てるのか…)
この男の寝言を聞いたことはほとんどない。
その瞼の裏の光景を思い描きながら、高杉はそっと頬に触れてみた。
「なあ…今見えるのは、どんな俺…?」
心ここにあらずの彼に、問いかける。
そのまま頬を指先で撫でると、ん、と彼の眉が捩れる。
愛しい、と思った。そんな反応が。
高杉は言いようのない苦しみに支配され、銀八の身体をひしと抱きしめた。
今だけは…
今だけは、こうしていたい。
この夜を越えたら、狂気に身を任せると決めていた。
怖い。その時が訪れたら自分はどうなっているだろう。
「銀八…」
あなたとの心休まる最後のひととき。
高杉は存分に彼の温もりを感じ取ることにした。
*
「高杉っ、来てたんですかいっ?」
丁度1限と2限の間だった。2限は幾何で、教室移動しなければならなかった。
廊下でふとすれ違った人物を、沖田が声を裏返して呼びとめた。
その男を目の前にして、近藤はそれまで暑さで渇いていた喉の感覚を忘れた。
「メールしても返さねえし…学校でも全然会わねえから心配したんですぜ」
「あー、熱出しちまってさ。ケータイも電源切ったままだった」
悪い、と彼は5本の指を揃えて眉間に宛がい、謝る仕草をした。
会話の流れで、彼が暫く学校に来てなかったことを知った。
「よ、久しぶり…」
無意識に沖田の後ろに隠れてしまったのだろう。
高杉も近藤の存在に漸く気付いたかようだ。
「久しぶり」と沖田がいる手前、とりあえず笑みを繕ったが何処となくぎごちなかった。
数週間ぶりに近藤の目が捕えた彼は、以前のような目力も失われ、疲労困憊しているように思われた。
だがそれ以上に、近藤も沖田も気になった点があった。
「その眼帯、どうしたんでえ?」
病み上がりを象徴するように、一枚の真っ白い布が左目を覆っていた。
「寝返り打ってぶつけたら腫れちまった」
不細工面を見せたくないからとりあえずつけている、と冗談を塗しながら彼は言う。
沖田はそれで納得したようだ。
高杉はルックスを気にする男だから、と。
近藤は目を細める。
隣の友人は気にも留めてないようだが、高杉の口の端が赤々としている。
殴られた跡。
直感でその答えに結び付けた。
完治に近い状態だが。
「ノートとか貸しやしょうか?ほとんど問題集の解説だけど」
沖田と高杉は幾何のクラスが一緒だ。
友人に借りたが、お前のほうがまとめ方が上手いから見せてほしい、と高杉は沖田の親切心を汲み取る。
「今日は国立の過去問やるとか言ってやしたぜ」
「まぢかよ、かったりいな」
近藤だけが別教室で、途中で別れる。
「近藤、あとで」
二人に背を向けて上げようとした踵を下ろす。
何が、と振り向いた時は二人が教室に入った後だった。
(あとで…)
後で会おう。話したいことがあるから。
そう思わせぶりな言葉の切り方だった。
近藤の心臓が不穏なリズムを打つ。
確信には至らないが、何か血生臭いことを言わんとしているような気がした。
否、事情を知っているだけに自分は余計なことを考えすぎではないか。
どちらにしても、彼は場所も時間も告げなかった。
告げなくてもわかるだろう、というように。
たぶん。
*
橙色が主役となる時間帯。
もはや二人以外、誰の目にも触れることないその場所は無法地帯と化していた。
「悪いな、呼び出して」
「いや…」
歯切れが悪い。
何か言いにくいことを言わんとしている。
「本当はもう二人で会うつもりもなかったけど…」
「………」
「あんたと俺、やっぱりダチなんて無理なのかもな」
高杉がくしゃっとした笑みを浮かべる。
身体の関係まで持った間柄だ。
それに高杉と近藤の場合、ごく一般で言う恋愛関係というわけでもない。
もっとリスクの高い、複雑な間柄。
「それとも、俺があんたに甘えてんのかも…」
近藤は人が良い。それに優しい男だ。
利用しようと思えばいくらでも利用できる。
「でも…あんたしかいねえんだ。話せる奴」
高杉は机に腰掛けると、間髪入れずに左目の眼帯を外した。
「………」
近藤は言葉を失う。
色素が薄くなった瞳は、右目のように近藤を捕えることが出来ないでいる。
「高杉…その目…」
「見えない」
「え」
沖田らに内密にしたがる程のことだ。
左目を見せられた瞬間そうだろうと直感したが、いざ言葉で明確にされるとショックを隠しきれない。
「どうして…」
まさか。近藤は言いかけて、恐ろしい事態を想像した。
「あんたの思ってる通りだと思うよ」
やはりこの関係から逃れられない。
近藤の顔が青ざめる。
あいつだ。坂田銀八だ。
「ごめんな…」
謝っている対象事が何となく理解できた。
恐らく何らかの形で、坂田銀八にこの関係が露顕したに違いない。
それでぼこぼこにされた上、目まで潰されたのか。
そんな話をして、お前は俺にどうしてほしいというのか。
せっかく安穏な日々を取り戻しつつあったのに、また巻き返すつもりか。いい迷惑だよ。
しかしそう思えないのが、近藤の性格だった。
「だけど、あんたには絶対手出させねえから安心してよ。約束する」
何の信憑性もない言葉だが、自信たっぷりに言われた。
なんだ、その笑顔は。
「俺、明日から学校来ねえから」
「え?」
近藤は目を丸くして、高杉を見やる。
「銀八も来ねえから」
「どういう意味だ」
「分かるよ、明日になれば」
目が笑わない笑顔とは、このようなものを言うのだろうか。
「近藤には、言っておきたかったから…それに謝りたかった」
来ないとはどういうことだ。
まるで二度と会えないような言い草だ。
「高杉…」
「ごめん」
「高杉っ」
高杉が近藤の胸に飛びついた。
不意を突かれた近藤は身動きが取れない。
「もう、いやだ…」
「………」
「怖い…」
「高杉…?」
布越しに胸板が湿った。
高杉が顔をあげる。
「近藤、明日は晴れるかな…」
いきなりどんな質問だと、近藤はその意味が理解できない。
「確か雨だよ。雨だ」
「そっか…」
雨かあ、ついてないな、と高杉は諦めにも似た苦笑を浮かべる。
高杉は自分に何かを期待していたのか。
それが叶わなかったというような表情だ。
「ヘンなこと言っちまってごめんな。あんたには余計なことだったかも」
胸のあたりから温もりが消え去る。
じゃあ、と一言呟かれた。
そのまま高杉は“戻らない”であろう空き教室を出て、静かに扉を閉めた。
「高杉…」
馬鹿なやつ。高杉は自分のことをそう呼んだ。
近藤に言う必要はなかった。
心のどこかで彼なら助けてくれるかもしれない、と期待していたのだろうか。
(怖い…怖い…)
この両方の掌がこれから一生滲みついて離れないもので汚されてしまう。
彼の血は、自分のものと同じような匂いだろうか。
味は、鉄臭い感じだろうか。
ひとりで戦わなければ。
誰を頼ったところで、自分たちのことは自分たちでしか解決できない。
時計の秒針の音のひとつひとつが、高杉の鼓動を速めていく。
あの男が帰宅するまでの約1時間を、ひとりで耐え切らなければ。
「ふう…」
高杉は深呼吸した。
少しでも隙を作ってはならない。
切っ先をよく研いでおかなければ。
思い出は一旦袋に詰めて、隅に追いやっておかなければ。
(できる…できる…できる…)
自分に暗示をかけた。
自分の中に残酷な感情だけを充満させた。
銀八の数々の裏切りや暴力を只管並べていく。
憎悪が積りに積っていくのが分かる。
よし、こんな感じで。
やれるぞ。
そうか、これが。
鬼か。