リクエスト・企画作品置場
□君の幸福を心より
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十二月末日
この月に入ってからは日の傾きも刻々と早くなる。
夕刻ともなれば早くも外は薄闇色に移り変わり、冬独特の凜とした空気が身を縮ませた。
そして現世と同じ暦日を持つ尸魂界及び瀞霊廷では、日々何かと慌ただしい時が流れていた。
《十二番隊・研究部局》
「マユリさぁ〜んッ…!
は…ァっ…こッ、こんな所にいらしたんスか?
ハアぁ〜、随分と捜しちゃいましたよ!」
「何だネ、全く騒々しい」
年末の書類整理や研究のまとめやらで気忙しい最中、部局の廊下から随分と盛大に自分の名を叫ばれた。
一昨日完成したばかりの新しい霊具のレポートを纏め上げたばかりであったマユリの眉が、その人物の声を耳に留めた途端にぴくりと不快げに寄せられる。
この狭い局内で、自分のことを名指しで呼ぶ者など極限られた人物だ。
しかもその特徴的な低めの声色とカタカタと鳴り響く雪駄の音から、その人物が誰であるのかなどマユリにはいとも簡単に理解ができた。
「五月蝿よ、浦原。
年末の仕事納めでワタシは疲れているのだヨ。
貴様のその騒がしい声と、その雪駄の音!どうにかならないものなのかネ…、頭が痛くて仕方が無いヨ…」
「あ…、いやぁ〜すみませんマユリさん。ですがボクも年末の忙しさについ大事な事を忘れてしまっていて…!
さっき急に思い出したものですから、忘れない内に貴方にお伝えしておきたくて。
でもマユリさん何処にもいらっしゃらないから、ず〜っと捜してたんスよッ!」
そのまま勢いよく部局に入ってきた喜助は、マユリの存在を確認すると息を切らせながらも一気にそうまくし立てた。
その顔には何故か、満面の笑みが浮かんでいる。
マユリはハァと少し大袈裟に溜息を漏らすと、喜助のその姿に己の胸に沸々と込み上げる不快感を何とか気合いで抑え込み、しかしさも煩わしそうな眼差しで喜助を一瞥した。
テンションが上がりきっている様子の目前の男に対し、自分がどの様な悪態を突いたところで所詮は無駄に受け流され空回ってしまうことなど既に学習済みなのだ。
「で?…何だネ」
連日の疲労に加え仕事に邪魔が入ってしまった苛立ち。
そして安穏とした喜助の顔に棘のある口調と表情を隠せない。
しかしそれ程度に怒りを抑えられている自分を、マユリは我ながら褒めてやりたいとも思った。
「ん〜ふふ…それがですね〜。
ふと気付くと何と!今日は十二月の三十一日だったんスよっ」
「……で、」
だから?と
マユリはそう返答しかけた。
しかし妙に興奮気味な喜助のその姿に僅かな違和感を感じたマユリは、そのまま男の様子を伺う事にした。
もしかしたらこの忙しさに、つい何か忘れてしまった事柄があったのかもしれない。
その事柄を喜助が思い出し、さも自慢げに自分に一報しに来たのであればそれはまた癪である。
だからマユリは冷静に、何か忘れてしまっていた案件はなかっただろうかと過去の記憶を呼び起こす事にしたのだ。
『はて…?今年の研究はこの新霊具の開発が最後の筈だが。
来年度の研究資金の見積り書も既に提出済みだというのに…、おかしいネ。全く何も思い出せないヨ』
マユリは心中そう呟きながらそれでも思考を巡らし続けた。
「マユリさん」
すると突如、喜助がマユリの両手をそっと握り締めてきたものだからその思考は強制的に中断されてしまう。
「なっ、何だネ浦原?その手を…離し給えヨ」
「うふっ、ふふ…」
握られた手を振り払おうとマユリは僅かに己の両腕に力を入れた。
すると今度は喜助がにやにやと微笑みながらも数段強い力でマユリの両手首を掴み、その白い掌を己の頬に擦り付ける様な仕種をしてきたものだから、マユリは瞬間ビクリと躯を震わせた。
うっとりとした喜助のその表情。
これは間違いなく仕事上の案件などではないのだと、男のその瞳が語っている事にマユリは漸く気付いたのである。
「マユリさん…」
どこか甘えた様な口調で、喜助が再びそう囁く。
と同時にマユリの脳に、嫌な記憶が思い起こされた。
ここ最近になって、マユリは喜助から過剰と言っても良い程の接触を受けていたのであった。
喜助曰くそれは単なるスキンシップという名の挨拶程度の行為であるとの事だったのだが、マユリにはどうにもそれが解せなかった。
物憂な眼差しをこちらに送ったかと思えば、事ある毎に他人のパーソナルスペースに容易く侵入し、べたべたと自分の身体に触れてくる。
全く以って不粋かつ理解不能なその態度に、マユリは喜助を少々本気で気味の悪い男だと思い始めていた程だった。
そして今も最早、目前の男の意識にはここが仕事場であり、かつ自分達の後ろには忙しなく働く数名の局員が居ることなど欠片らにも無いのであろう。
何かの欲に憑り付かれた様なぼうっとした喜助の眼差しに、マユリの警戒心が高鳴った。
時に自分の世界に入り込み周囲の眼すら何ら気にしない喜助と、研究以外の事柄に関しては常に冷静さを失わないマユリ。
喜助の頬に自らの掌が添えられている、今のこの有様。
これを目にした局員達に、自分がどのような奇異な眼差しを向けられてしまうのだろうかと想像すると、マユリの脳は軽い震盪を起こしそうな程の羞恥に見舞われるのだった。
「う…らはら、此処が何処だかよお〜く考える事だヨ?
第一、当初の話しの先が全く理解できないのだが?」
これ以上、喜助に怪しげな己の世界に入って貰われては困ると
マユリは当初の話を早々に切り出しにかかる事にした。
「あッ!…嗚呼っ、マユリさんっ…そうでしたあ〜」
マユリの言葉に喜助の惚けた様な表情は一変し、急に真面目な面持ちとなる。
そして再びマユリの手を強制的に自分の掌で包み込み少し上体を屈めると、喜助はマユリの耳元に唇を寄せひっそりと呟いたのだ。
「だから…今日は、お仕事が終わった後はボクの宿舎に来て下さいね」
「は……?」
突然の意味不明な喜助の囁きに、マユリは一言そう返答するしかなかった。
“だから今日は…?”
マユリは脳内で喜助の言葉を反復させ、その意図を探るように男の顔を覗き込んだ。
これが、男がわざわざ息を切らしてまで自分に言いに来た案件でだったのであろうか?
だとしてもマユリには男のその意図がやはりさっぱり理解できなかった。
「浦原…悪いがお前が言う意味がさっぱり分からないのだがネ?
何故ワタシがお前の宿舎へ赴かねばならないのだネ…、用件があるなら今すぐ此処で言い給えヨ」
「マユリさん…?
あ…っ、ああッ!そうかっ、そうでしたッ〜!!」
「何なんだネ!?」
真面目な顔に戻ったと思ったら、突然頓狂な声を出して一人頷き始めた喜助。
突然現れ意味不明な言葉を突き付けられ、更にコロコロとその表情を変えていく目前の男に、ただでさえ疲労の溜まったマユリの精神は随分と疲弊させられていった。
「浦原ッ、貴様人の話を聞いているのかネ、エッ?」
「そ〜ッスよね、マユリさんはまだ此処に来られてから一年と少ししか経ってませんものね。
だからお仕事に慣れる事に夢中で…、うん。
だからボクの事も良く知らなくてらっしゃる…アハハ!そうッスよね〜」
「だから一体、何の話しなのかと聞いているんだヨッ!?」
何時までも釈然としない喜助との会話に、マユリの苛立ちも抑え切れなくなってきた。
眉間に皺を寄せ凶暴な目付きで喜助を睨み付けると、マユリは握り締められた己の腕を力一杯振り上げそのまま振り落とした。
「ア゛…!いだッ、いッ…痛いじゃないスかマユリさんっ!!」
振り下ろした勢いでマユリの掌を包み離さなかった喜助の両手が、鈍い音を立て机の角に勢いよくぶつかる。
その痛みに顔をしかめた喜助は瞬間その手を離し、少し赤くなった自らの両の手を摩りながら困ったように微笑んだ。
「もう、マユリさんたら激しいんスから」
「気持ちの悪い事を言うんじゃないヨ、大体何をしに来たんだね貴様は?
これ以上無駄な時間は、ワタシには無いのだがネ」
「はいはい、分かりましたよぉ…ではこれだけお伝えして帰りますね。
今夜必ずボクの部屋に来て下さい…お話ししたい事が、あるんですよ」
「ふんッ、くだらないネ。ワタシにその様な時間は無いと…」
「これは」
不意に、喜助の声がマユリの耳元で低く響いた。
「これは、隊長としての命令っスよ。宜しいですか、マユリさん」
「なッ…!」
《命令》
喜助のその言葉に、マユリの顔が一瞬苦々しく歪められた。
十二番隊に新たな組織を併設するという喜助の言葉に乗り蛆虫の巣から出てから一年余り。
マユリにとって、技局での生活はそれまでに比べやはり随分と自由なものに感じられていた。
喜助の指揮の下、局には少しずつではあるが当初より随分と充実した設備と機材が揃うようになった。
莫大な研究資金を工面する事も、喜助の口先で案外と簡単に得られる事ができた。
この場所で誰に咎められる事もなく何時でも実験や研究に取り組める環境を与えられ、マユリは副局長という肩書や権限さえ手に入れた。
それはマユリにとって実に理想的なものであった。
けれど反面、この自由と環境が浦原喜助という死神の力無くしては得られなかったと言う事実は変えようもなく。
その事実が、まるで何時まで経っても癒えない古傷の様なキリキリとした痛みをマユリの心に植え付け、苛立たせた。
巣と言う牢獄からの解放
マユリはそれに対し、今まで喜助に感謝などといった殊勝な感情など持ち合わせてはいなかった。
そしてそれはきっとこれからも同じなのであろう。
しかし
蛆虫の巣での《看守と囚人》という間柄。
技術局での《隊長と副局長》という立場の差。
自分と喜助の間に有る主従関係の様な忌ま忌ましい関係性は形を変えても尚、やはり今も消えてはいないのだ。
だから先程のように喜助の口から『命令』などと言う言葉を聞いてしまうと、マユリの胸には今でも抑え切れない程の憤りと大きな屈辱感が込み上げる。
「くッ!…全く横暴な輩だヨ」
今はまだこうして、刺のある言葉でしか喜助に抵抗する術を持たない自分が口惜しい。
何故ならこの関係性を保つ事こそが、今の暮らしを支える大きな礎となっていることをマユリは充分に理解しているからであった。
マユリは軽く喜助を睨み付けると、全く以って横暴な上官の命令に不快な表情を崩さなかった。
「では夜に。お待ちしてますよん♪」
睨むマユリをヘラリと笑顔でかわすと
喜助は《隊長命令》などという絶対的かつ卑劣な権限で以ってマユリを強制的に頷かせたのだった。
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