主文

□閉じた瞼に口付け
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薄暗い部屋

行灯の淡い灯を受け、マユリは不安げに揺らめく瞳を喜助に向けた。



『浦原、眠れないのだヨ』



先刻そう小さく呟きながら
マユリは時折この様に、まるで気ままに喜助の宿舎に押しかけた。

彼の中の何がこの様な行動を取らせるのか、きっかけは時により様々だった。

だがこうして恋仲である喜助の寝床に寝そべるマユリはいつも疲れ果て、その表情は何故か放心したかのようにとても無防備だった。



「全く眠れないのだヨ、何故だと思う?」



床に臥せたままギョロリと金の眼球だけを動かし、マユリはそう問い掛ける。
そして昼間の冷淡さや激昂の気配など、全く感じさせない程の弱々しさを喜助に見せるのだ。





化粧を落としたマユリの目の下には随分と長らく眠れていないのだろう、薄い皮下組織に隈らしき血液のうっ滞が見てとれた。

喜助はそんなマユリの頬にそっと指を添わして、ゆっくりと彼の瞼から目元を撫でる様に優しく触れてゆく。
するとくすぐったいのか、マユリの目が薄く閉じられた。



「眠れない…、何故?」



喜助は低い声でそう問い、労るような力で何度もマユリの目の淵を己の指先でなぞっていった。

それに呼応するように細められる金の瞳が何だか猫のそれの様に思えて、喜助の胸に少しの愛しさが込み上げる。





「…眠れない理由?それが分かるのなら、ワタシはわざわざこうしてお前の宿舎にまで足を運ばないのだがネ」

「そりゃ酷いっスよ、マユリさん。
用が無くてもわざわざ来て下さいよ、アタシは何時でも貴方をお待ちしてるんスよ?」

「…全く、暇なことだネ」

「マユリさんを待つ時間は、決して暇なんかじゃないんスよ?
ずっと貴方の事を考えてる。
アタシにとっちゃそれが、何事よりも大切な時間なんですから」



喜助がそう言えば、マユリはやや呆れた様に小さな溜息をついた。





本当のところ、喜助はマユリの慢性的な不眠の理由を理解していた。

この所の連日に及ぶ実験と研究により、マユリは日中いつも以上に神経を昇ぶらせていた。
幾ら手慣れた作業とは言え、新たな研究にはまた新たな緊張と期待・成功と失敗に様々な理論を構築させる必要性が生まれる。

脳細胞からは常に興奮物質が放出されて神経を刺激する。
そうなれば夜になっても、眠気は一向に彼に訪れないのだった。

昼間の興奮が夜にも続き不眠が重なれば、自律神経は侵され更なる興奮状態を引き起こす。
マユリの脳は全く以って、無限ループの様な悪循環状態に陥ってしまうのだ。



もともと神経質なマユリは、一度何かに没頭すると一日中頭の神経を休ませることが出来なくなる。

常人ならば一度職場から離れれば、職務の事など忘れて気持ちを切り替えられるのだろうが。
マユリにはそれが出来なかった。

マユリの研究に対する執着と集中力は尋常なものではなく。
それ故に頭の切り替えについてはとても不器用であり、必要以上に精神と体力を疲弊させてしまう。

そんな彼のことを、喜助はとうに理解していた。





「こんなになるまで独りで苦しんで、もっと早くにアタシの所に来て下されば良かったのに…」



喜助がそう優しく囁いて蒼い髪を撫でてやれば、マユリは気持ち良さそうに更に瞳を細めて布団の上で身体を弛緩させた。



「んふふッ…、マユリさんてば猫みたいっスね」

「失礼な奴だネ。しかしおかしい事に浦原、お前のその阿呆面と単調な低い声を聴いていると…。
少しだけ、心が落ち着くのだヨ…」

「何気にまた酷い言い方スけど…。
まァそりゃあ、愛の力ってやつじゃないっスかねぇ」

「…馬鹿馬鹿しい話だ」



言ってマユリは自分の髪を梳く喜助の手を掴み、それを腕ごとゆっくりと己の胸まで滑らす様に抱いた。



「マユリさん…?」

少し驚いて顔を覗き込むと、目を閉じ穏やかな表情でマユリが小さく話し出す。



「このところ眠れなくてネ、沢山の睡眠導入剤を服用してみたのだヨ。
しかしさっぱり効果が無い。
そこでお前にもこの苦しみを体感させてやろうと、夜通しワタシの研究理論を聞かせようと此処まで来てみたのだがネ…
こうしてお前の腕を抱いていると、不思議と眠気を覚えるようだヨ…」

「何スかそれ?
そんなに遠回しにおっしゃらなくても。
何時でも貴方の身体ごと、抱いて差し上げますけどね」

「五月蝿い男だネ、必要…ないヨ。
それでは余計に眠れなくなるだろう?」

「どういう意味っスか」

「…知れたコトだ」

「ハハ…、」





「…浦原。お前の手は暖かいネ…」



そう言うと、マユリは少しだけ開けた瞳で喜助を見つめ
再びその瞼を閉じた。





*





「ん…、あら?」



暫く刻が経ち

マユリに抱かれた喜助の手の平が感じたのは彼の心臓の拍動と、平静と呼吸する胸の動き。



マユリの口元から、細く小さな規則正しい呼吸音が漏れ聴こえるようになった頃

喜助は優しく微笑み、その瞼にそっと口付けた。








マユリさん
貴方に必要なのはどんな薬より、アタシの存在と肌の暖かさ。



それが何よりの安定剤







どうか貴方に、深い眠りが訪れますように



終。
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