主文
□甘い匂いに脳が痺れる
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やっと暑い季節が過ぎ去りはしたものの、日中肌に感じる風はまだ生温い。
何度かその温い空気を吸い込んでいると、マユリの鼻腔が僅かに甘い匂いを感じ取った。
その匂いはどうやら隊舎裏の密林の様に生い茂る木々の方から漂ってくるようで、マユリは首を傾げた。
「何だろうネ、この匂いは…」
「 匂い? 」
マユリの声に、背後でカレの首筋に顔を埋めていた喜助が少しだけ顔を上げた。
ふわふわとした男の髪が首の薄い皮膚を掠め、ムズ痒いような感触にマユリは瞬間身じろいぐ。
「ッ…、匂うだろう
食べ物とも何か違う、甘い香りだヨ」
「甘い香りっスか?んー、ああ、これは…」
マユリの言葉に、喜助は何度かスンスンと息を吸い込む。
そして少し間を置いて、マユリの耳元で小さく呟いた。
「これは、金木犀の匂いっスね」
「きんもくせい…?何だねそれは」
喜助からの聞いたことの無い言葉に、マユリは興味を抱いた。
「この十二番隊の庭では、現世から持ち運んだ色々な動植物を飼育・栽培しているのはマユリさんも御存じですよね?
この匂いはきっと、そこの裏庭で育っている木の花の香りっスよ。
今ちょうど、花が開花する時期ですから」
「…ホウ」
マユリは喜助に短くそう答えると、再び漂う濃厚な花の香りを吸い込んでみる。
それは意識すればする程に甘く濃く鼻腔をすり抜けていった。
今までの記憶にない程にそれは強烈で、マユリは僅かに眉を潜めた。
「これは、酷いネ…」
「あら…。マユリさんはお嫌いですか、この香り。
アタシはとても気に入ってるんスけど…?」
「ワタシは苦手だヨ。
甘ったるくて吐き気がしそうだ」
「それは、残念」
喜助はそう呟くと、再びマユリの首筋に甘えるように頭を擦り寄せた。
「お…いッ、遊びはここまでだヨ、浦原。
そろそろ互いに仕事に戻るとしようじゃないか」
擦り寄せられた場所がどうにもムズ痒く、マユリは喜助の腕から逃れるように身をよじった。
しかし喜助もそう簡単にカレを解放するつもりはないらしく、逃れようとするマユリの腰を己の腕で更に締め付け、拘束を強くする。
「浦原ッ!いい加減にしないと誰かがワタシを呼びに来るかもしれないヨ!?」
「そしたら見られちゃいますね…、アタシは別に構いませんけど」
「きさまはッ!」
大の大人が、どうしてこんな子供が拗ねた様な態度を取るのだろう。
マユリは喜助の言動に、時々頭を痛めるのだった。
浦原喜助の精神回路は単純なようでいて複雑だ。
しかしそれをいちいち考え込むのも時間の無駄のように思い、マユリは全ての抵抗を放棄した。
「マユリさん…?」
「もういい、貴様の好きにし給えヨ。
誰かが此処に来たところで、今更だ」
「随分と素直なんスね?」
「諦めだヨ。ワタシが一人足掻いたところで、馬鹿力な男一人どうにもできないからネ」
「怒ったんですか?」
「だったら斬り捨ててるヨ」
マユリの言葉に小さく笑うと、漸く喜助の腕から力が抜けた。
「金木犀の花言葉…、ご存知ですか?」
「ワタシがそんなくだらない事に、興味があるとでも?」
「いえ…」
マユリの躯を拘束していた喜助の腕が、ゆっくりと外されてゆく。
そしてマユリの背中のラインを手の平で数回撫で下ろした後、喜助は再び熱っぽい声でそっと呟いた。
「金木犀は、汚染された大気の中ではなかなか花芽を咲かせないんだそうです。
花言葉は、陶酔と初恋…
ロマンティックでしょ?」
「女だったら、さぞかし悦ぶだろうネ」
「貴方に言ってるんです」
「…残念だが、興味が無いものでネ。
しかも悪いが、ワタシの躯には既に血とアルコールの臭いが染み込んでいるのだヨ」
ニタリと笑ってマユリは意地悪に、そう告げてみた。
何千もの生を殺め血に染まった我が身に愛を囁く男を、内心馬鹿者だと罵りながら。
「マユリさん」
喜助はそんなマユリの背中にそっと呟く。
それでもそんな貴方には、どちらの匂いも似合いだと
囁き。
喜助は再び、僅かに血生臭さをまとうマユリの項に唇を寄せた。
背中越しに感じる男の熱と甘ったるい声に、マユリはそれでも不思議と嫌悪を感じなかった。
マユリは小さく微笑むと。
脳まで染み込ってしまいそうな、むせ返る程の甘い香りをもう一度ゆっくり吸い込んだ
*
数日後。
マユリの研究机の片隅に、小さなオレンジ色の花弁が密かに置かれた
終。