Special

□籠の音色
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 その夜は新月だった。僅かな星影の下、邸から一人分の影が滑り出て、門扉へと向かった。
 と、唐突にその足が止まる。
 どこからともなく、バイオリンの音色が聞こえてきていた。人影は、その音色に耳を傾けでもしているかのように、しばらくの間そこに佇んでいた。バイオリンが一際高い音を奏でる。やがてその人影は門を抜けて敷地の外へと出て行った。
 その姿が完全に闇に紛れてもなお、バイオリンの音色は朔の夜空の下で響き続けていた。

 どこまでも静かな夜に響く、微かな靴音。やはり何も言わずに去るつもりなのだと彼女が察するのには、それで十分だった。
 用意していたバイオリンを構え、ゆっくりと奏でる。長い間使われていなかったにしては、保存状態は極めて良好だった。澄んだ音色は、彼女の記憶の中のそれと寸分違わない。
 唯一の贅沢だったバイオリン。手放せば、他のものとは桁違いのお金になると知りつつも、決してそうしなかった。それはきっと、このバイオリンこそが、父と母を亡くす前の家族の象徴のようなものだったからだ。
 そう、だから願おう。この音色が、いつかかつての自分たちを取り戻させてくれることを。再び、自分たちを引き合わせてくれることを。
 そして、思う。――どうか無事で。
 待っている。信じている。このバイオリンの音色とともに、ここで、再び相見える日を。
 いつまでも――。





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