広い庭の中、彼の姿を見つけた。
「――ヴィル!」
背後から呼びかけられて振り向こうとする彼の視界から、素早く消える。息を殺して心の中で数を数える。5まで数えたところで、そろりと動いて、
「ディア、」
いつの間にか、彼が彼女のすぐ後ろにいた。
「・・・・・・見つけた」
彼がそう囁く。彼女の、すぐ耳元で――。
彼女の心臓がどくりと音を立てて跳ねる。
思わず駆け出した彼女の手に、彼の手が重なって、
「ディア!」
抱き寄せられた。
「ちょ、っとヴィル、」
声をあげかけた彼女を、彼は鋭い目線で制する。それとほぼ同時に、声が聞こえた。
「――・・・・・・ですね」
「まったく、どうしたものか・・・・・・」
複数の声と足音が、近くを通り過ぎていく。
「あの王女様は――」
聞こえた言葉に、彼女がぎくりと身を強張らせる。しかし、彼の手に優しく耳を覆われて、その先を聞くことはできなかった。
しばらくそうして身を潜めていたが、やがて彼がゆっくりと身を離す。彼を仰いで、その瞳に浮かぶ静かな怒気に射すくめられる。
「・・・・・・ヴィル?」
おそるおそる、彼の名を呼ぶ。
「・・・・・・」
彼の返事はない。怒りのあまり彼女の声が聞こえていない。
どうするべきか一瞬迷い、辺りを見回して誰もいないことを確認すると深く息を吸う。
「ヴィル!!!」
「わ・・・・・・っと、ディア!?」
「行こ!」
虚を突かれて硬直している彼の手を引っ張って歩き出す。
「――どこへ、行くって?」
一呼吸置いて、幾分落ち着いた声音で彼が尋ねる。彼女が簡潔に答えた。
「どっか」
「どっか、て・・・・・・」
その答えに呆れたような声に、彼女がかぶせるように続けた。
「ヴィルが行きたいとこ」
彼女はそう言いながら、彼の先を歩く。彼の戸惑うような声が後ろから追いかけてきた。
「ディア?」
「いいの!・・・・・・だって、一緒でしょ?行きたいとこ」
いったん言葉を切って、くるりと彼のほうを振り返る。いたずらっぽく笑って、声をかけた。
「せーの、」
『ローズガーデン』
綺麗にふたりの声がそろった。
「ね?」
その言葉に、彼が微笑む。ざわりと胸が騒ぐのを無視して、彼女も満面の笑みを返し、どちらからともなくしっかりと手をつないだ。ふたりは並んで歩き出す。
ローズガーデンへと、三叉路を左に曲がる。目に飛び込んできた風景に、歓声が上がった。
「わぁっ、本当、すごく綺麗!」
素直に喜ぶ彼女の横顔に、彼の胸が締めつけられるように痛む。
「ね、ヴィル。これ部屋に飾ったらどう?」
いつの間にか、ずいぶんと距離が開いていた。彼は慌てて彼女の許へと歩み寄る。
「あ、これ、今年の新品種だよね?綺麗な色」
そう言って彼女が見るのは、鮮やかな黄色の薔薇。そう、まるで、
「ヴィルと同じ色だね」
彼女のような。
嬉しそうに、彼女が笑う。
純粋で、そして無垢な、
その、笑顔。
胸が、痛い――。
そう、このざわめきは、
予感。
彼は、『外』を知っているから。知ってしまったから。
誰よりも近いのに、遠い。
彼が離れていってしまう。
嫌。
置いていかないで。
ひとりに、しないで。
そう縋りたい。できるものなら。
できる、わけがない。
だって、それはほかならぬ彼女自身の所為だから。
だから。
だからせめて、許されるあいだは彼の隣で笑っていたい。
『笑顔を』と。
そう彼女に望んだのは、彼。
彼女の、かけがえのない半身。
そう、だから彼女は笑う。
綺麗に。
彼の傍で。
時が、満ちるまで――。
そう、この痛みは、
確信。
彼女は『外』を知らないから。ここに在るすべてが、彼女の『セカイ』のすべてだから。
誰よりも近く、遠い。
もう、彼女のように無垢な子供ではいられない。
彼女のようには、笑えない。
けれど。
彼女を守る。たとえ、何があったとしても。
そのための、闇。
そのための、自分。
何があっても、
何を失っても、
護る。
だから。
だからせめて、彼女だけは。
幸せでいてほしい。
笑っていてほしい。
彼女のためならば、自ら、
闇に、堕ちよう――。