Special

□籠の音色
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 薄暗い廊下に、小さく足音が反響する。もう長いこと手入れもされていない絨毯が、その音を中途半端に吸い取った。
 辺りを見回しながらゆっくりと足を運んでいた彼女は、ふと足を止めて壁に近づいた。日に焼け、黒ずんだ壁に、うっすらと亀裂のようなものがはしっていた。
 小さくため息をついて、壁の汚れを手にしていた手巾で拭う。布越しに触れたざらついた感触に、彼女はひとり眉を寄せた。
「……この辺りも、もうそろそろ駄目かしらね」
 ぽつりと呟いて、彼女は再び歩き出した。立ち止まる前より心持速く歩を進める。今だけは、頭を空にしておきたかった。

 自室へ戻ると、机の上に置いた覚えのない、しかし見覚えのある封筒が乗っていた。瞬間的に頭に血が上って、その勢いのまま封筒を丸めて放る。薄っぺらい封筒は、ごみ箱にさえ入れられることなく部屋の隅へと転がっていった。
 倒れこむように肘掛け椅子に座る。意識して呼吸を深くしても、先ほどの封筒の所為で頭から両親の顔が離れなかった。

 未だ戦火の及ばぬここから、彼女の父は前置きもなく姿を消した。誰にも何も告げることなく去った彼が戦地へと召集されていったのだと、彼の部屋に残された封書から知った。
 それでも、戦争が終わればまた帰ってくるのだと一縷の望みを抱いていた。彼女も、彼女の弟、母さえもがそう思っていた。
 帰ってきたのは、父の自筆の遺書だけだった。戦争は、終わらない。
 その後間もなくして、父の後を追うように母も急逝し、姉弟ふたりだけが遺された。それが、2年前のこと。姉は19、弟は16だった。
 ふたりで遺され、ふたりで生きていければいいと諦めた。諦めるしかなかった。
 けれどそれさえも危ういと、彼も彼女も知っていた。

 彼女が始めてそれを見たのは、家のことをすべて仕切っていた母が亡くなる少し前のことだった。見慣れた封筒を運んでくる、どこか異様な雰囲気を纏った人々。その封筒に書かれた、彼女の弟の名前。普段の優しい顔からは想像もつかないような鬼気迫る表情で、その封筒を火にくべる母。
 数日後、母に伴われて、彼女はこの辺り一帯の権力者一族の屋敷へ赴いた。そこで母は、その屋敷の主にきっぱりと言い放った。
「わたくしたち母娘のいる限り、家のものは戦になどやりません」
 反論する隙も与えず、唯一持参してきた鞄から、小さな箱を取り出す。彼女も見たことのあるその箱の中には、母が父から贈られた貴金属類が入っているはずだった。
「その代わり、相応の物は差し上げましょう。不服がおありならば、わたくしたちは今すぐここを離れますが」
 いかがですか、と問う母の目は、奥底まで冷め切っていた。目の前の相手に選択権がないのは明らかだった。母の資産と、今は亡き父の技術。代々受け継がれてきたそれらが、彼を今も支える糧であることは決して揺らがない。切り捨てることは、そのまま破滅と零落を意味していた。

 そうやって母が守った家族を、母亡き後彼女もまた守り続けていた。たったひとりだけ残された肉親。彼女の大切な弟。
 けれど、そんな母娘の行動が周囲に理解されることはなかった。かつては人望篤い資産家だった彼らを、使用人は次々と見限り、自ら職を辞した。隣人も最早力になってくれようとはせず、彼らは次第に見捨てられていった。
 邸は、彼女が懸命に維持しようとしても荒れてゆき、今ではふたりの居住範囲外は廃屋同然となった。それでも、残された資産はまだ豊富にあり、姉弟ふたりで暮らしてゆくぶんには、当分困ることはない。それでも、と万が一のために倹約し、浮いた資産は彼の徴兵免除のために惜しげもなく使った。
 ふたりで生活していくための犠牲ならば、それだって決して高すぎやしなかったのだ。

「……やっぱり、一度補修をしないといけないわ」
 脳裏にちらつく過去を追いやろうとするように、彼女は自分に言い聞かせるように呟いた。家の中の有様は思ったよりひどい。ついでとばかりに外を見に行って作ってしまったかぎ裂きに指を這わせ、思いため息をもらした。
 手近にあった繕い物の続きをしながら、これからどうするべきかの算段を練り始める。やっと消えた過去の影の代わりに、今度は現在の状況が彼女の頭を悩ませ始めた。


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