Special

□道端
1ページ/2ページ

 男は、容赦のない日差しの下を歩いていた。
 もう9月も終わりに差し掛かったというのに、未だに残暑は厳しい。ネクタイを緩めた首元に、じわりと汗をかいているのを感じる。この分だと背中はもうびっしょりだろうなどと考えて、手に持ったジャケットに急にありがたみを覚えた。
 駅から会社までの、決して短くはない道のりが、やたらと長く思える。歩いても歩いても、先ほど通り過ぎたのとさほど変わらない風景しか、眼前には現れない。ただ、その中のひとつに、自分が属しているというだけのこと。ともすれば周囲に埋もれてしまいそうなそこに行き着くことは、きっとその会社の人間以外にはできない芸当だろうとすら思える。そして、その中にいる自分が、決して恵まれているわけではないだろうということも。
 大きくため息をつく。次の角を曲がれば、会社までは一本道だ。そう、今にもビルが見える――。
 角を曲がる。そこから数歩分先の黒いアスファルトに違う色を見出して、男は一瞬足を止めた。
 あれは何だ?
 紺色と、白。明らかに地面でもアスファルトでもなければ、自然のものとも思えない色合い。
 男はふっと詰めていた息を吐いた。誰かが落し物でもしたに違いない。自分が何を気にする必要があるというのだ?そう割り切って、歩を進める。しかし、その足取りはすぐにまた重くなった。アスファルトの上に落ちていたそれが何であるか、男の目にもはっきりと確認できる距離まで彼が近づいたとき、ついにその足は止まった。
 誰かの落し物。
 それは、入れ歯だった。
 その下に敷かれた紺色のものは、男も知っているブランドの靴下の片方のようだった。フォーマルな場にしか用いない、そんなものが何故、こんな道端に、しかも入れ歯の下敷きになっているのだろうか。
 わけがわからない。男は一寸立ち止まったものの、ひとつ頭を振るとその脇を通り過ぎて会社へ向かった。
 そこには何もなかったとでも言いたげに。

 昼休み。男は昼食を買おうと会社を後にした。限られた時間に、自然に足取りは速くなる。リズムよく続いていた足跡は、しかしビルからいくらも離れていない場所で止まった。
 黒いアスファルトに、不自然な紺色。
 その上にあったはずのものが、ない。
 認識したその一瞬に覚えた違和感に思わず足を止めたものの、思いなおしてまた歩き始める。
 あれはきっと落し物だったんだ。それを落とし主が拾って、持ち帰った。いや、もしかしたら親切な誰かが交番へ届けたのかもしれない。どちらにせよ、もう済んだこと、関係のないことじゃないか――。
 そんな風に考えながら、男は歩き続けた。
 その足取りが、一層速くなっていることに気付かないまま。

 しかしその虚勢は、長くは続かなかった。
 会社へと戻る帰り道、男は再びその入れ歯を見つけたのである。場所は街路樹の根元、縁石の上。明らかに数十センチ移動していた上に向きが変わって、歩道を歩く男には歯の白い部分がよく見えない。
 もしかしたら、この入れ歯は動く入れ歯なのでは。いや、そんなものが実在するのか?ないだろう。多分。
 ごく普通の結論にたどり着いたのは、そんなことをしばらく考えた後だった。
 そうだ、誰かが動かしたに違いないのだ。いかにも通行の邪魔になりそうな場所に入れ歯などが置かれているので、動かしてくれた親切な通行人がいたのかもしれない。あるいは、面白がった子供の仕業かもしれない。そう考えれば、辻褄はすべて合う。
 ひとたびその考えに至れば、なぜ自分が動く入れ歯などという馬鹿げたことを考えたのか、男には全くの謎だった。だいたい、入れ歯などそうそう大きいものでもないのだから、動力をどこにつけるというのか。
 いつの間にか止まっていた足が、そんな思考とともに動き出す。それでも何故だか、男は一度だけ後ろを振り返った。入れ歯の白い色がちょうど太陽を反射して、目に眩しい。
 ――え?
 男は、折角動き始めた足がまた凍るのを感じた。
 さっきは確かに、歯の面積の大きいほうが道路側を向いていたはずだ。しかし今は。
 自分のほうを向いている。
 男はごくりとつばをのんだ。それから、ややぎこちない足取りでその場を後にした。
 賢明にも男は、今度は振り返ることをしなかった。

次へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ