秋の澄んだ空気の中に、微かに冷たいものが混ざり始める頃。
僅かに雲がかかったような淡い色の空に、一際大きく、そして黒い影が現れた。長い嘴、すぼめられた首、ゆっくりと羽ばたきながら風を受ける翼。
蒼鷺である。
二、三度大きく羽ばたくと、翼をぴたりと制止させ、滑空するように飛ぶ。徐々に高度を落とし、蒼鷺はとある平原へと降り立った。時折吹く風に揺らされる木々の葉擦れの合間に、近くを流れているのだろう、小川のせせらぎが聞こえる。
草の緑と枯葉の茶とが混在する平原に、傾いた日に照らされた蒼鷺の黒々とした影が落ちた。
薄墨色の雲が、重く空に垂れ込める。何層にも重なった雲の端々に、一際濃い灰色の雲が顔を覗かせている。
冬であった。
寒さと悪天候を予言するような雲に僅かな日差しさえ遮られ、真昼にも関わらず辺りはどこか暗く感じられる。不穏な空模様の予言を裏切るまいとでもするかのように、刺すような風が吹き始める頃には、静かに雪が降っていた。
風に舞うほど軽く、そして積もれば積もるほど重く、暗い空とは対照的に真白い雪が、世界を自身の色で埋めつくしていく。
草の葉の緑を、枯れ草の薄茶を、白の欠片は容赦なく侵食する。赤茶の地を、冷たい水をたたえた小川を、平原を――平原に立ち、空と同じ色の影を従えた蒼鷺をも、その色と同じ清らかさを以て。
開かれた蒼鷺の目に、色を変えつつある光景が、そしてどこまでも色彩の欠けた空が映った。
今ひとたび一度――蒼鷺は微かに身を震わせた。その身体に降り積もり始めていた雪が払い落とされ、地に重なるそれの上に音もなく加わった。
ゆっくりと首を伸ばし、両の目に濃淡のある灰色をした空を映しながら、蒼鷺は落ちてくる白を拒むことも、動くことさえもせず、平原に立ち続けていた。
ただ、声なき声で、見上げた空に祈る。
今一度、あの蒼穹を――。
空はただ、色を移していく雲をたたえ、微かな闇を投げかけていた。
冬の寒さも少しずつ和らぎ、雪解けの水で水量を増した川が、薄曇りの空の下で軽やかに音を立てる。
蒼鷺は、そこに立っていた。目を閉じ、まるで時を止めてしまったかのように変わることなく、痩せ細り、汚れてみすぼらしくなった体に、冬の名残のように、その羽よりも白い雪を積もらせて。
黒く、そして白く、時には灰色に、空に斑模様を作り出していた雲が、風に刻々と様相を変えていく。と、その時だった。
一際強く吹いた風に、雲に亀裂が走る。一筋だけこぼれ出た陽光が、平原へと差した。
微かに、訪れつつある春の気配さえ感じさせるその光が、そっと蒼鷺へと降る。風に揺れるその羽毛に当たると、まるで蒼鷺彼自身が輝いているような錯覚に陥りそうでさえあった。
――次の瞬間。
俄に目を見開いた蒼鷺は、徐にその翼を広げた。その目に、今一度とまで思った、在りし日の空が蘇る。そう――そう、今なら――。
しかし。
大きく広げたその翼を打ち下ろそうとして、蒼鷺は大きくよろめき、平原に倒れ伏した。懸命にもがくも、どれほど力をこめても、その体は痙攣するように細かく震えるだけだった。起き上がることすら儘ならず、それでもやせ衰えた体にぴんと緊張を漲らせ、少しでも空へと近づこうとするかのように首をもたげる。
ああ――せめて今一度、あの蒼穹を翔けたかった。あの日のように。過ぎ去りしあの輝かしい日のように。
けれど。もう、この体が動かない。この翼が、この足が、もうこの体を支えていられない。たとえこの生命の息づく大地に在っても。あの至高の光に満ちた空に在っても。
ならば――ならばせめて。大地と、空とともに、逝こう――。
穏やかな日差しに包まれて、蒼鷺はゆっくりと閉じる。
最後の息が空へと消えていく瞬間、閉ざされる寸前だった蒼鷺の瞳に、僅かに残された雲の亀裂の向こうの青空を、翼を広げ、何物からも解放されたように羽ばたく青い影が映った。