青く晴れ渡る空の下、長閑な時間は過ぎていく。
そんなある日のことだった。
「・・・・・・お願いがあるの」
いつになく真摯な声音と眼差しに、彼は身を硬くする。一呼吸置いて、彼女が再び口を開いた。
「もし、私がここにいられなくなったら・・・・・・」
その言葉に、彼は自分の耳を覆いたいという衝動に駆られた。
やはり、彼女は人間ではないのだと、そのことを知ってしまったのだと、そう察して。
その後に続くであろう言葉を、聞きたくなかった。
「ねぇ、私のこと・・・・・・殺して、くれるでしょう?」
予想通りの言葉に彼は一瞬絶句し、抑えた声音で返した。
「――どうして、殺してやれると思う?」
やっとのことで呟くようになされた問いに、彼女は口の端に薄く笑みを刻むと、当然とでも言うように答えた。
「だって、わかってくれてるもの。私は、そんなこと嫌だって」
「――!」
その答えに、彼が言葉を失った。
予想できない答えではなかった。
そう、彼女なら望まないだろう。自分たち同様、闇を間近で見てきた彼女ならば。
闇に住まうモノとなる意味を、知っている彼女ならば、きっと。
それは、誰かを傷つけるということ。
それは、誰かを犠牲にするということ。
それは、悲哀と憎悪の連鎖を生むということ。
そして、それらの上にしか成り立ち得ないかりそめの生を生きるということ。
それが人々の求めてやまない『永遠』であることは確かだ。
誰かを傷つけてでも。
誰かを犠牲にしてでも。
負の感情の連鎖の中心に身を置いてでも。
永遠を求める。
けれど、そうして得られた永遠に、何の意味があるのだろう。
何の価値があるのだろう。
彼は知っている。彼女は知っている。
闇に住まうモノの後悔を。悲哀を。嘆きを。
だからこそ、彼は永遠に価値を見出せない。彼女は永遠に価値を見出せない。
意味を、見出せない。
見出さない。
『殺して』、と。
その願いは至極当然のものかもしれない。少なくとも彼らにとっては。彼女の気持ちが、彼にはよくわかった。
誰かを傷つけてしまうくらいなら。
誰かを犠牲にしてしまうくらいなら。
負の感情の連鎖の中心に身を置いてしまうくらいなら。
終焉を、望む。
闇に堕ちれば、自分の手で幕を引くことは叶わない。
ならば、大切なひとに、手を下してほしい。
けれどそれでも。
それでも、彼ならば、彼女にそう乞うことはできないだろう。
彼女がそのための力を持たないためではない。
彼女が、大切なひとだから。
彼女が、優しい人だから。
きっとそう願えば、彼女は自分を殺してくれるだろう。それは、確信を持っていえる。
けれどそのことは、彼女を救わない。
死こそが救いだと、何度自分に言い聞かせても。
あれは最早ひとですらないと、何度自分を納得させようとしても。
それしか道はなかったのだと、何度自分を正当化しようとしても。
その心、その記憶、その優しさ故に傷つき、苦しむ。
そうとわかっていて、彼女に告げることなど、できない。
では――ではなぜ、彼女は彼に告げた?
簡単だ。
彼女は、人間ではない。たとえ人間に限りなく近い存在でも。
彼女は、自分のことしかわからない。他の存在を思いやるということを知らない。
彼だって、彼女の本当の気持ちはわからない。けれど推測はできる。
誰かを傷つけるのが嫌なのではない。
誰かを犠牲にするのが嫌なのではない。
負の感情の連鎖を生むのが嫌なのではない。
誰かを傷つける自分が、
誰かを犠牲にする自分が、
負の感情の連鎖を生む自分が、嫌なのだ。
きっと、そうなのだろう。そう推測できるということは、
それは自分の心のどこかにも、そういう気持ちがあるから。
そうだ。
人間だって、同じだ。
他人の痛みを理解しようともしない人間がいる。
他人の苦しみを理解しようともしない人間がいる。
他人の不幸を、自分の幸福にしようとする人間がいる。
それらの人間と彼女と、どこが違うのだろう。
どこも違わない――いや、人間のほうが悪質なのではないだろうか。
彼女は本来の彼女自身に忠実なだけだ。ただあるがままに、己の気持ちに素直なだけだ。
人間は違う。
人間は、彼女とは違う。自分の中にある真実から目を背け、目の前の惨状から目を背け、仮面を被った偽りの自分に、さもそれを望んでいるかのように振舞う。
愚鈍で、醜悪、そして非道。
自分だって、そんな一人じゃないか。
彼女の願いを聞きたくないと思った。
彼女を手にかけたくないと思った。
それは、自分が傷つきたくないからだ。
そうすれば傷つくのは彼女だからだ。彼ではない。
結局は、自分のため。
けれど決定的に違うのは、彼女がそれを理解することはないということ。
彼女には、彼の苦しみがわからない。
彼の、痛みがわからない。
悔しかった。
こんな形で、思い知らされるなんて。
彼女が、自分とは違うと。
彼女を闇へ堕としてはならないと、そう思ったのに。
結局は何も変わらないのか。
何も、変えられないのか。
救えないのか――いや、そもそも何が救いだ?
ただ自分が、それこそが救いであると思いたかっただけではないのか?
わからない。
何も、わからない。
何故、こうも愚かなのだろう。
人間は。
何故、こうも醜いのだろう。
もし、彼女の美しさに触れることができたなら、
それを得られるのならば、
すべてを擲っても構わないとまで、思うのに。
「――ああ」
低い声で、囁くようにやっと言葉を返す。
「殺して、あげよう。他の誰にも譲らない。決して」
だから、その死の苦しみを、どうか自分に。
それは、彼の罪に対する罰だから。
人間ではないと知って、届かない想いだと知って、彼女を愛した。
それは彼の罪。
彼の咎。
ならば、その苦しみを負うべきなのは、彼。
それが報い。
それが、罰。
わかっている。きっと自分では、彼女には敵わない。
それでも、
誰にも譲りたくはない。
それは――ある種の、欲。
たとえその死がもたらすものが苦しみであろうとも、悲しみであろうとも、憎しみであろうとも。
他の誰にも、味わわせたくはない。
そう、それらは、
本当に彼女を愛した、その証だから。