Special

□籠の音色
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 それから長くはない時間が経った頃、彼女は控えめなノックの音で我に返った。慌てて返事をすると、ドアを開けて部屋に入ってきたのは、静かな面持ちをした彼女の弟だった。
「どうしたの、こんな時間に」
「……姉さん、今時間いいかな」
 おずおずとそう切り出した彼に軽く頷き、無言で話を続けるように促す。それでも一瞬だけ躊躇ってから、彼女に問いかけた。
「封筒の中身、見た?」
「見てない」
 つい強い口調で返して、彼女はふいとそっぽを向いた。それを見て、彼は安堵でもしたかのように息をつき、彼女にそっと一枚の紙を見せた。
「それ……!」
 彼女はそれきり絶句し、信じられないとでも言いたげにその紙を凝視した。彼がちょっと目を伏せる。
「ごめん、先読んで中身抜いといた」
「貸しなさい」
「嫌だ」
 命令でもしているような強い口調で言った彼女に、彼も即座に言葉を返す。それから一呼吸だけ間をおいて、彼は再び口を開いた。
「俺、行こうと思ってる」
「駄目よ!」
 悲鳴のような彼女の声。それにもただ、彼は沈黙を返しただけだった。
「そんなことしないで!まだうちには余裕があるわ、行く必要なんて何処にもないの。さあ、その紙を寄越しなさい、今すぐよ。破って、火にくべてしまいましょう」
「姉さん」
 何処までも静かな、しかし力強い一言が、彼女の言葉を遮った。
「確かに、今うちには余裕がある。……余裕がないのは姉さんだ」
「何、言って――」
 否定しようとするも、彼女自身言葉が上滑りしていることに気付き、声が途切れる。それに追い討ちをかけるように、彼は小さく言った。
「知ってる。全部――ごめん」
 最後に付け加えられた謝罪は、彼女の耳には届かなかった。
 知られていた。すべて――家のことも、あの人たちのことも。見捨てるだけでは飽き足らず、自分たちを、この家までをも貶めようとしたあの人たちのことも。
 どうして、知られてしまったのだろう。うまく隠せていたはずだった。ふとしたときに向けられる言葉も、いつの間にか増えている家の傷も、ひそひそと交わされる根も葉もない噂も、――それらを私が黙っていたことも。
「……どうして……」
 ぽろりと零れた問いには答えることなく、彼が口を開く。
「あんな、嘘っぱちの、悪意だらけの言葉で姉さんが貶められるなんて、もう嫌だ。我慢できない。今しかないんだ。今しか」
「やめて!」
 どこか思いつめたような言葉を、彼女が必死に上げた声が遮る。
「貴方が気にすることじゃないわ!あんなの、身内を奪われて殺された人たちが僻んでるだけよ、自分達の身内からしか死者を出さないのが怖いんだわ!――ねえ、だからお願い。行かないで――私、嫌よ。貴方まで、父と母に続いて貴方まで失うなんて、絶対にいや。お願い――行かないで。行かないって言って」
 そう言う声は震え、語尾は今にも消えそうに濡れていた。そんな彼女に、彼はきっぱりと言った。
「確かに、戦に行ったら死ぬかもしれない。殺されるだけかもしれない。……でもこのままじゃ、俺より先に姉さんがあいつらに殺される。――だから、行くよ」
 告げるなり、彼女の返事を待つことなく彼は踵を返して部屋を去った。
 引きとめようとした言葉を舌先で凍りつかせたまま、彼女はひとり呆然とその場に残された。

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