Novel

□理想の朝のむかえかた
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"たすけてくださ"

最後の"い"が抜けていることにただ事じゃないと思ったあたしは
ジャージのまんまで弘樹の家に飛んできた。

着いて、あたしは呆れて目を丸くした。




「ぅ、うああああああ!!!」

時計の針は午前5時を指している。

窓から見える灰色の空がまぶしい。

「ご…っ、あああ!!!」

「うっさい!」

背中からぎゅっと抱きついてくる弘樹を
あたしは丸めた新聞で叩いた。

「だって…あれがう、動…」

「分かったから大声出さないで」

弘樹をなだめながら、
散らかった部屋に足を踏み入れる。

ぴっとり弘樹がくっついて、歩きづらい。

「…どこいった?」

きょろきょろ辺りを見渡す。

しん、とした空気の中弘樹は何もいわず部屋を出た。

「…どしたの」

「さ、さっき黒いの…かさかさって」
「えー、どこ…」

弘樹が指さす方を見渡す。
ちらりとこっちに向かっている
黒い陰が横から見えた。

あたしの足をくぐり抜けようとしたその虫を
上から新聞をかぶせてそっと包んだ。
「ちょっと弘樹」

「…ふぇえ?」

「窓、開けて、早く」

弘樹は「どうして?」と問いかけているような目で
おそるおそる部屋の窓を開ける。

あたしは新聞を包んでいる両手を窓の外で広げた。

虫が急いで逃げていくのを見送ると
あたしは胸をなで下ろした。

ふと弘樹を見る。
彼はぽかんと突っ立っていた。

「殺さんの?」

「かわいそうじゃん、生き物だよ?」
「…かわってるね」

そう?

昔からそうして生きて来たから
あたしにとってはこれが常識なんだけど。

あたしは新聞を丸めて捨てた。

「じゃーあたし帰るよ」

「えっ…」

はっと弘樹は我に戻る。

「もぉ帰んの?…」

あくびをしながらうなずく。
玄関へ行き靴を履いていると
また弘樹が背中から抱きついてきた。
「もうちょっといれば?」

「嫌、何時に起こされたと思ってんの?」

全く…。あたしはため息をついた。

たかがゴキブリ一匹のために
あたしは朝の4時に起こされた。

おかげで寝不足。せっかくの休みなのに。

「いいじゃんか、なんか食べてけよ」

「結ッ構です!朝っぱらから起こされたこっちの身にもなってみろ」

あたしが勢いよく立ち上がると
するりと弘樹の腕からすり抜けた。

ドアノブに手をかけて、あたしは振り返った。

そこにはしゅんとしている弘樹がいた。

その手にはのるか。あたしは目をそらす。

「せっかくうまいもの食わせようと思ったのに、…」

「いらない。家帰って寝る。」

「何怒ってんだよぉ…、生き物には優しくするんじゃねーのか?…」

うつむいて縮こまっている弘樹を見て
胸がきゅっと痛んだ。

「や、優しくするなんて一言も…」

「そーかそーか…ゴキブリは大切にするんだよな…」

「俺ってゴキブリ以下…」、そう呟きながら弘樹はのそのそ部屋へ戻る。

押さえていた良心が急にぶり返してきた。

「待…って」

弘樹はほんの少しだけ首をこっちに向けた。


「…朝ごはん、何」

弘樹は満面の笑みを見せつけてきた。
罠にかかってしまった自分が悔しい。

「フレンチトーストでも作ろうか」

弘樹はリビングにあたしを連れ込んで
ふたつ並んでいる椅子に座らせた。

ことん、と置かれたコーヒーの香りが鼻をくすぐる。

…こーゆーのもいいかもね。
コーヒーを飲んでそう思った。
しめしめと笑っている弘樹の笑顔のせいか、
砂糖も何も入っていないコーヒーは
ほんのり甘かった。



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