この男とは少しも長くいたくない。同じ寝台の上にいるとき、ひときわ強く思う。早く離れなければという感情は、焦燥に似ている。 重い体を引きずって、何とか寝台を下りようとした。 手を掴まれた。ぬるい体温を思わずふりほどく。抱き合う時だけだ、彼の手が温かいのは。 「どちらへ」 青年の象牙の弓のような腕の先、なだらかに骨の隆起する背は、完璧な美しさを誇っている。 そして、完璧な拒絶と深い孤独に満ちていた。 まやかしの温かさから去る手を引きとめても、たちまち振りほどかれてしまう。 「気は済んだ」 吐き捨てて、衣装の乱れ落ちた床へ下りた。 黎明の闇の中に立つ姿は、この数年で驚くほど背が伸びた。七尺は優に届く。 筋肉の形の美しい、若者らしい体躯。うなじの白さはそのままだが、発する声は常に苛立ちを抑圧した低い男の声になった。 小さく清らかな花が、枯れぬまま再び硬く閉じ、珠玉にも似た果実に変わる――そういう、全き美しさの外見と不自然な歪みを内包する、不吉なほどの魅力がある。 切れ長の犀利な目が“鑑賞している”――気づいた曹髦は、冷たく鼻を鳴らし、顔をそむけた。けだるい節々に内心で舌打ちして、さっさと寝衣を着けてしまう。裾からすらりとした手足が伸び、青年らしい体つきが強調される。それでも、みずみずしい色香を隠すことはできない。 この男の前では、できる限り隙を見せたくなかった。もう長い間、無防備で情けない姿をさらすような関係を続け、いまだに断ち切れないことは別にして、だが。 (いやになる、何もかも) こうしている間も苛立ちや鬱屈が胸を重苦しく圧迫するのに、時折、こんな腐りきった情事を求めてしまう。 司馬子上という男が優しかったことなど、一度もない。その兄の凍り付くような態度に比べれば、まだしも慇懃無礼というだけだ。 だが、いつかこの男は言っていた。勝ち誇ったように。 “誰のせいでもない、この関係を許したのは、あなただ――” ああ、そうだ、そういうことでしかない。 結局は、自分が許しているだけなのだ。 曹髦が目をやると、司馬昭はゆっくり起き上がって、崩れかけた髪が邪魔だというように元結を取った。油のほとんど取れた髪が落ちてきたのを煩わしそうにかき上げ、適当に結び直してそのままにしてしまう。 一、二年のことだが、司馬昭はこういうとき、意外と自堕落な面を見せるようになった。 「私が四六時中、気を張っているとでも?」 いつかのけだるい朝、素っ気なくそんなことを言っていた。 生意気で、どこか子供っぽい、これが彼の本質だったのかもしれない。 ああ、今更そんなことを思ってどうなるというのだろう。最初から知っていたとしても、最初から自分と司馬昭の関係など変わりようがないのだから。 こちらへ向き直った皇帝の、鼻梁の通った端正な顔を、司馬昭はまぶしげに見やった。 黙って、不機嫌そうな横顔で佇む青年君主を、少しだけ感慨深く思った。 「歳月の経つことは、早いものですね」 潔癖な美しさを秘めた少年は、男性的なつややかさを備えた青年へと変わった。 だが、変わらないものもある。骨が細く華奢な体と青白い肌、長いまつげに縁どられた黒目がちな眼、それが険しく輝く様、そして――揺るぎない敵意だ。 歳月を経た今では、殺意と呼んでもいい。 その鋭利な敵意に触れる時、司馬昭の心臓は大きくざわめく。折れることを知らない誇りへの憐憫、庇護を振りほどき死地へ飛び込もうとする無謀さへの怒り、あるいは、切り離せぬ翳りを帯びた美しさへの欲望。 だが、何よりも大きいのは――その美しい肌が彼自身の殺意で血に染まることへの恐怖だ。 羽を切られた鳳凰が玉の鳥籠から逃がれ、彼を閉じ込めた者に鋭いくちばしを向けて飛びかかる時、それがいかに高貴な神鳥であっても、射落とされてしまうのだから。 「陛下」 振り向く曹髦の顔は、いつもと同じように冷ややかで苛立っている。 「このまま、あなたが健やかに歳月を重ねる様子を見ていたいものだ」 昔よりも冷めた鋭い目をすることの多い司馬昭が、奇妙なほど真剣に自分を見つめている。近頃は、こんな風に曹髦を慮るような言葉を告げることもある。 もう曹髦の中にさしたる感情を呼び起こさない。 「こんな時ぐらい、本心を言えばいい」 「本心ですよ」 「聞き飽きた」 二人の間ではありふれたやり取りだ。それでも、曹髦の頑なさは司馬昭を苛立たせる。 「私も聞き飽きましたよ……」 形の良い眉をわずかにしかめるのを、曹髦は変わらず冷えた怒りで眺めていた。 「ご機嫌を伺う言葉には慣れていても、ご機嫌を取る言葉は不慣れのようだな」 そう言い捨てて、ぬるんだ杯の水を飲む姿に、司馬昭はいらいらとため息をつく。 「あなたは何もわかってない」 途端、杯が甲高い音を立てて卓子に叩きつけられた。 「わかりすぎるほどだ」 白い体が寝台に滑り込んできた――獣のように飛びかかってきたと言っていい。 鋭く息を詰める司馬昭の唇を、曹髦は噛みつくように吸った。唇を舌でこじ開けて、無理やり舌を絡める――この男がしてきたことを、そのまま仕返してやった。手の中で硬い咽頭が呼気を求めて喘ぐのが伝わってくる。 それでも、つややかな髪を撫で、肩を抱く手が伸びてくる。 そのぬくもりは、いらない。一瞬でもすがりつきたくなる自分を殺したくなるから。 曹髦は唇を放した。 「陛下……」 濡れた冷たい唇で呆然と呟く男を、青年は見下す。 「お前が見たいものは私の死だろう」 青みがかった鮮やかな白目を持つ眼を、司馬昭は睨み返した。 「違う…!」 曹髦の長い睫が微かに震えた。 が、すぐに、何もかも締め出すように目を閉じてしまう。彼は黙って、寝台から降りた。乱れ切った襟や裾を整える動作は、情事の名残もなく、ただ動作であるにすぎなかった。 「何度、こんなやり取りをすれば気が済むのですか」 かすれた、少し怒ったような声が呼び止める。絞め殺さなかったのは、なぜだろうか。曹髦自身も、わからない。 「貴様たちが――貴様が私の死を望まなかった時が、一度でもあるのか」 「少なくとも、今は――あなたが信じるかどうかは別として、ですが」 「ならば、私はそれを信じない。心を開くような言葉を告げておきながら、それに手を伸ばせば傷つける。そうしなかったことなどないだろう」 それでも、今より幼い頃は、信じたかった時もあったのだ。 距離を推し測ろうとして、近づいても、遠ざかっても、不気味な距離が口を開けている。 次第に、それが彼の意図に弄ばれているだけなのだと気付いた。 篭絡できない相手だと判れば、あとは遠ざけるだけになったのだと。 その最後の形は、曹髦自身の死であることも。 だから、もう何も信じるべきことはない。 「今は違う、と言っても信じてはもらえないのでしょうね」 「そうだな、信じない」 「それでも私は、あなたに生き永らえてほしいのですよ。もう聞き飽きたでしょうが」 なげやりで、苛立って、それでも、どうすれば聞き分けない相手が理解するのかを煮えた頭で考えているような、そんな口調だった。 それは本心なのか、いつもの気まぐれな距離感なのか。曹髦には、わかっていた。だが、わかりたくもない。 司馬昭の願う曹髦と、曹髦自身が望む曹髦とが、絶望的に相容れない限り。 押し殺され、潰れてねじ曲がっていても、それが“愛情”である限り、心の底で求めたくなってしまうのだとしても。 「信じたくもない」 吐き捨てるような呟きを、彼はどう受け止めただろうか。 司馬昭は、また一つ、ため息をついて寝台を下りた。脱ぎ捨てられた衣裳を拾い、とりあえず袖を通す。器用に髪紐をくわえながら、長い指が緩みかけた髪を縛り、簪で毛先を巻いて仮止めに髻へ押し込む。 上衣を引っかけて長椅子に腰かけたままの曹髦を、司馬昭は少し意外そうに見た。 「もう少し、お休みになっては?」 寝つきの悪い、眠りの浅い青年は、美しい眼をじろりと司馬昭の方へ向けた。 「構うな」 疲れたような、物憂げな声だった。 確かに、夜明けのやり取りにしては不毛で、疲れるばかりの会話しかできない。そういう関係なのだ、自分たちは。 朝の冷気と、人間の匂いと、それを覆い隠すための香気が混じり残された部屋を、司馬昭は一瞥した。 きっと、自分も、彼も、同じことを考えている。 (――何のために、こんな歪な関りを残しているのだろうか) 特に、この神経質な清冽さを持つ皇帝は、殺したいほど憎い男になぜ肌を許すのだろうか。 そうまでしても、すがりつきたいと願う何かに突き動かされるのかもしれない。彼の激烈な血筋のおもむくままに。 (そんなもの、都合のいい想像にすぎない) あるいは、司馬昭自身の欲望を見て取った曹髦が、鏡写しに与える嘲笑なのかもしれない。 けれど、束の間でも彼が自分の手に抱かれる時が、確かにあるのだ。 化粧の間を出てきた曹髦は、いつもの凛とした美貌の皇帝に戻っていた。 そして、皇帝を先導する――皇帝の前を歩く司馬昭は、いつもの優雅な挙措と蛇の心を持つ大将軍に戻っている。 「その時が来れば、私が貴様を殺してやる」 貴様の心ごと、と曹髦は言った。 「貴様も私を殺すことになる。どちらかが死ぬ。そして、どちらかの望みが叶う」 揺るぎない殺意。 本当にこの子は、何一つ、なにひとつわかっていない。 「言ったはずですよ、私の陛下」 心臓が、痛い。 「死ぬことは許さない、絶対に」 ------------------------------- STARSET - PERFECT MACHINE |