企画作品集

□Breathe
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「俺を真に思うというのであれば、俺にのみ示す心を見せるがいい。他と同じく博愛せしむるなど願い下げじゃ」
 その他大勢を広く愛するような、顔も名も薄められた心など何一つほしくない。
 当たり障りなく包まれる情愛など要らない。
 ただひたすら、公孫伯珪という自分自身のために示される心だけが、価値あるものだ。
 強烈なまなざしを持つ白馬の将軍は、そう言い切った。

 和する、ということは生易しいものではない。不断の努力と並々ならぬ忍耐を重ねて、初めて形を成す。時に遅々として進まず、時に迂遠で、時に非常な苛立ちを以て臨むことになる。
「それでも、労多き道のりの果てに、費やしたもの以上の成果があるとすれば、それは素晴らしいことだと思う」
 そういう自分の理想は気に食わないという彼は、やはりというか、冷たく斬りつけるような眼をする。
「無駄なことを」
「だが、海を埋めるよりはずっと現実的で、望みがある」
 そう答えれば、彼は銀色の眉をちょっとしかめて顔を背けてしまった。
 本当に、気難しい人だ。敵と味方を明確に画して、変えるということがない。
 厳冬に似ていると思う。一見すると清げで美しいが、その実、無慈悲で冷酷だ。凍てつく中に花を眠らせていることも、また似ている。それが温かに花開くかは望み薄いけれど。
 だが、それに余りある強烈な魅力を持つ人だ。容姿や声の美しさというだけでない、心の奥底を惹きつける魅力があるのだ。彼の軍は主の難しい人柄に翻弄されながらも、離れられない。
 惜しい人だ、と思った。そんな評価こそ、彼を最も不快にさせるのだということも解っているけれど。
「そなたの仁愛とやらは平等じゃ。誰にでも分け隔てない。俺に接することも例外ではないのだろう。それは俺にとって、俺を憐れんでいることと同じじゃ。そなたには解らんだろうが」
 言葉の苛烈さとは裏腹に、口調は静かだった。押し殺した怒りと同じだけ、孤独を感じさせるような。
 あり得ないことだとわかってはいるのだけれど、時折、彼の大きな真紅の瞳の輝きが、その烈しい輝きのゆえに涙を湛えているように見える。
 鋭い銀髪や純白の服に包まれた姿は、鮮烈で厳しく、美しいが、そこに在る彼そのものは歳月とともにひどく傷ついて、しかも流れ出る血、深い傷をものともしない。
「あなたは、ご自分を思うならば、あなたのみを考えた心を示せと仰った。だが――」
 眼前の人の、鋭すぎる氷の刃のような言葉と心とを思って、劉虞は一瞬、言いよどんだ。が、ためらったのも一瞬だった。
「だが、私が御身を思って示す心は、あなたの怒りに触れるだろう。あなたは侮辱されたと思うはずだ」
 凍てつく秋霜をちりばめたような眼が、じっと、次の言葉を待ち構えている。
「それでも――それでも私は、あなたを傷つけず、あなたが傷つかない存在の一人になりたい。それは、できないことだろうか」
 心を覗きこむような、美しい目。
 陽春の清泉を思わせる、澄んだ、温かい光だ――無性に厭わしく、呪わしい。
 春の光は固く積もった雪を暴き、凍った湖底の闇に突き刺さり、寒気に封じ込められた生命を抉り出そうとする。
 美しく優しい日差しに焼かれた雪は溶け落ち、氷は打ち砕かれ、霜はぬかるみへと踏みにじられる。
「俺を哀れむつもりか」
 冷たい霜の光がたちまち氷の刃となって赤い瞳に噴き上がる。
「それは貴様の心を満たしたいだけであろうが。俺はそんな哀れみなど望まぬ、望んだこともない、これからも」
「長史、私は――」
「俺を“傷つけない”と言ったな。貴様の目に、俺は傷ついているとでも映ったのか、ゆえに救わなければならないと?それが貴様の最も忌まわしい気質だと言うておるのじゃ、身勝手に他人を推し量り、解き明かしたつもりで、己こそが救えると妄信して俺自身の心を考えることもせぬ。思い上がるな!」
 胸に鋭い痛みが奔る。その苦痛を逃さんと劉虞は深く息をついた。
 こういう物言いで、相手に先んじて自分を護ろうとするのだ。けれども、確かに彼は自分の言葉をそのように捉え、そのように聞こえるのだろう。それは本当なのだ。
 赤い氷柱を突き刺してくるような眼を、劉虞はまっすぐ見つめ返した。
「哀れんだことなどない。あなたは、それほど生易しくも、甘い人間でもないからな」
 公孫瓚という人が救いを求めたことなどないのだ。これからもないだろう。彼自身が救済を必要としていないのだから。
「だが、あなた自身が救いを必要としていないことと、あなたの抱えた問題があなたの土台を知らず蝕んで壊していくこととは、私には別の事柄に思える」
 その瞬間、籠手に覆われた右手が劉虞の襟首を鷲掴みにした。
「二度と言わせるでないわ、貴様が俺を量ろうとするな。次に同じことを言えば首を折るぞ」
 低い、豺狼の唸り声にも似た怒り。公孫瓚はそのとおりに、ためらいなく殺すだろう。それでも劉虞の目は、冷たく射抜くような真紅の目をまっすぐと見ている。同じだけまっすぐな光を輝かせて。
 ぎゅっと音を立てんばかり、公孫瓚は眉を歪め、荒々しく手を離した。
「強く在ればこそ、我が軍はここまで付き従ってきたのじゃ。弱みを見せれば、たちまち侮られ、失望される。そんなことは俺の矜持が許さぬ。ならば、俺はどこまでも強く突き進むだけよ。これが俺の誇りじゃ。誰にも踏み込むことはさせぬ」
 睨み合うように、視線だけが交わり、弾かれ、沈黙が支配する。
 劉虞の唇が開いたとき、公孫瓚の目は微かに恐れているように見えた。
「誰かの手を取るということは、弱いことでも、逃げることでもない。私は、そう信じているから、そのように生きてきた。あなたが、強く在ることこそ自分のあるべき道だと信じて、生きてきたように。だから、私はあなたを哀れんだりしないし、あなたの信じる生き方に向かっていくこともない。それでも、時に生きる道が近づいたり、接したりすることはあるはずだ――その時、違う道を行く者と少しだけ触れ合いたいと思うことを、許してほしい」
 言って、劉虞は少し恥じるように目を伏せた。
「いや……確かに、私も少し言い過ぎた。むきになってしまったな……」
 こちらを宥めようとして、そんなことを言っているのではないと、癪だが、それはわかってしまう。
 そうでないなら、最も触れられることを嫌う部分に迫られて気の立っている公孫瓚に、なおも自分の意見を言うなどと手間をかけず、適当なきれいごとを言って宥めたつもりになるだろう――公孫瓚が蛇蝎のごとく嫌うのは、そういう“君子”だった。
 だが、劉虞はどこまでも心を尽くそうとする。それが相手に届けば喜び、届かなければ潔く諦める。真摯で、誠実で、どこまでも優しい。
 温かすぎるのだ、公孫瓚にとって。
「俺は、そなたを殺してやりたい……」
 鋭く凍りついた眼が、感情のまま、ひときわ強く輝いた。陽光に照らされた霜が解け、昼の光を映すように。
 きっと、あの温かな光に触れてしまえば、彼の手は優しく自分を抱きしめる。
 そして、自分は視界を喪う。自分という視界を喪って、目を開けることが怖くなる。
 もう誰にも自分を蔑ませはしない、二度と誰にも自分を否定させない――だからこそ、強く在ろうとした。だからこそ、ここまで昇り詰めてきたというのに。
「そなたは俺を否定せぬ。だが、そなたの生き方は俺の生き方を否定する」
 強く在ることこそ、自分にとっては絶対の生き方だ。
 だが、温かく人を惹きつける劉虞の生き方は、より多くの者たちを認めさせる。
 それでも、公孫瓚には劉虞のような生き方はできないし、したくもない。自分を偽るぐらいなら、否定する存在を切り捨てるほうが、ましだ。それ以外にどんな生き方ができるだろうか。

「そなたに触れれば、きっと俺は、初めて息をすることができる。ひとりの人間として息をつける。その代わり、公孫瓚という俺自身を喪う」

 感情の融け合う眼で、彼はそう言った。坩堝よりも激しく輝き、そのゆえに感情が判らないほどの眼で。
 彼の感情を、矮小に、あるいは、より鈍感に言い表すとすれば“嫉妬”や“警戒”で片付くのかもしれない。それは劉虞の関心を引きたい者たちが口にする言葉でもある。
 そんな生易しい人ではないと、当の劉虞が知っている。
 こちらに敵意が何ひとつなかったとしても――あるいは敵意や悪意がないと“自覚している”からこそ無意識に――彼の守り続ける矜持を侵してしまう時、彼は全力で敵意を向けるのだ。自分という生き方を守るために。そのゆえに違う形で傷つこうとも、何かを失おうとも、彼には問題ではないのだ。
 劉虞が触れたいと感じた人は、触れる者を焼き滅ぼす炎であり、あるいは触れる者を凍てつかせ叩き割る氷でもある。
 そして公孫瓚の生き方は、自らを傷つけ、血を流し、その血に濡れて彼自身の命を脅かす。それでも戦わなければ、よりひどく傷を負い、やがて自分自身を喪う。
「どちらも同じだ、触れれば何かを喪い、傷つけあう」
 沈黙の後で、劉虞はそれだけを言った。その瞳の優しい輝きほどには、甘い言葉を言わない男でもある。
「だから、もう、あなたの心には触れない」
 真紅の瞳が、変わらず複雑な感情にきらめき、またたく。諦めと静けさの殻が、薄く、硬く、心を覆っていく。それで自分と彼の関係は何も変わらない。そのまま自分を護ることができる。
 そのはずだったのに。
「少しだけ――あなたの手を取っても?」
 かりそめの微笑みもなく、劉虞は彼を見つめた。
「取って、どうなるというのじゃ」
「何も。ただ、あなたに少しだけ触れたいだけだ」
 公孫瓚は答えなかった。断られてもいいと、思っていた。
 素っ気なく、右手が持ち上がる。さっき怒りに任せて劉虞の襟をつかんだ、冷たい右手が。
 劉虞が、初めて微笑んだ。残雪の中に萌え出る芽を見つけたような、優しい光を目に灯して。
 慎み深い厳しさほどには、劉虞の指は冷たくなかった。
「そなたは、どこまでばかなのだ……」
 悔し気に呟く公孫瓚は、それでも、触れるだけのぬくもりを許している。
「あなたは、あなたにのみ示す心を求めただろう」
「この行為が、そうだというのか」
「どうなのかな」
 また、劉虞がうち笑んだ。
「きっと、私が、あなたに触れたかっただけなのだろうな」
 裏表のない、温かな目。この指先と同じ、慎ましく温かな。
(――だから、触れたくなかったのじゃ)
 手を伸ばして、触れたくなってしまうから。それが悪くない感覚だと、わかってしまうから。
「今だけだぞ」
「感謝する」
 劉虞の右手に、違う左手が重ねられた。










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Fleurie - Breathe






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