開戦からひと月が過ぎた。 寄せ手の大将石田三成は、豊臣の圧倒的な物量の前にも落ちぬ城に業を煮やしていた。 地下水を利用して沼田と化し、落ちれば上れぬ堀切。 砂利や砂を混ぜた分厚い粘土で固められ、国崩し300挺の一斉射撃でも崩れぬ土塁。 それらの上に、大岩を積み重ねた八丈はあろうかという石垣が聳え、厚い石の壁を備えた廓からは巧みに開けられた銃眼から鉄砲や焙烙が浴びせられる。 同じ備えが三重に巡る、最奥に城が構えられているのだ。士気の上がらないことおびただしい。 「くそっ…豊臣に刃向かう不埒者共が…!」 すでに、竹中半兵衛の指示した攻略期限は過ぎている。 忍城で毛利元就に――それも、春風駘蕩とした隠居態の男に――大敗、魏軍には瀬戸内海戦で手痛い敗北を喫している豊臣軍に、これ以上、拡張政策を続けている余裕はない。 背後では織田軍が攻勢をかけている。逆らう存在のすべてを許さぬ魔王には、一時も気を抜けない。 「凶王様!」 「何事だ」 「敵将が…総大将、加藤清正が城壁に現れました!」 三成は無言で愛刀を掴み、駆け出した。 豊臣軍が石ひとつ崩せなかった石垣の上に、その男は現れた。 刃渡りの長い横薙の槍を担ぎ、虎の毛皮をまとった、若い男。意志の強そうな顔立ちは、精悍だが、まだ少年の雰囲気すら残している。 だが、この男こそ、聳え立つ金城鉄壁を築き、一万の攻囲にも揺るがぬ篭城戦を展開している、恐るべき大将なのだ。 「お前が、石田三成か?」 答える代わりに、油断なく鯉口を切る。 この距離、高さでも、一刀ぐらいは浴びせる自身が、三成にはある。 「俺の…あー…朋輩にも“三成”ってのがいるが…」 「だからどうした」 「…そいつも、お世辞にも戦は上手いと言いがたいが……」 じろりと清正に真顔で見られて、三成は不快そうに睨み返す。 「お前の戦はひどいな。下手なんてもんじゃない、めちゃくちゃだ」 損耗や兵站など、戦の基本を何にも考えていない、勢いと怒りに任せて突き進んでるだけの異様な進軍だ。 腕一本で出世してきたと自負する清正でも、後方の重要さぐらいは理解している。 「お前、大将に向いてない。どうせなら、将は他のにまかせて、お前だけで突っ込んできたほうが、軍のためだな」 「…挑発のつもりか」 「お前、本当に何も知らないんだな…お前なんかを大将に据えた奴の気が知れねえ」 その一言が、三成にとって竹中半兵衛を侮辱されたに等しい一言が、三成の思考をいともたやすく逆上させた。 「貴様あぁッ!」 三成が鉄砲隊に正射を命じる前に、清正が右手を上げた。 「撃ってもいいが――」 さすがに、三成は一歩、踏みとどまった。 「撃ったら、俺はこの城壁の下に隠れる。代わりに、お前らに矢玉の雨が降る、ってわけだ。わかるだろ」 余裕綽綽といった風の清正だが、視線だけは油断なく三成を捕らえている。 自らの行動をまったく疑っていない、狂気に満ちた眼差し。 何が怖いといって、こういう手合いほど恐ろしいものはない。 ――あっちの豊臣ってのは、こんな狂った連中ばかり飼ってやがんのか…? 間諜たちがもたらした情報で、眼下の男が“凶王”と呼ばれているという、その理由はよく解る。 「三成、お前は俺に勝てない。どんなに兵力を投入したって、お前の攻め方みたいなんじゃ、俺と子孝さんなら半年だって持ちこたえられるからな」 「それでおめおめと兵を退け、と言うか…」 「それ以外に、お前の選ぶ道はないだろ。どうしてもやるっていうなら、お前らが全員飢え死ぬまで受けて立つぜ…」 「無論、それも覚悟の上だ。豊臣の兵たるもの、最後の一兵たりとも勝利を得ずして引きはせん…!」 清正の表情が険しくなった。 「お前、大将として、本気でそう考えてるのか…?」 「豊臣の将軍たるもの、それが当然の務めだ。豊臣に殉じ、秀吉様の崇高なお考えに殉じる、それが俺の務めなのだから」 「馬鹿野郎ッ!」 「な…っ…」 「てめえが死ぬことしか考えてねえ、そんな奴は大将なんざやめちまえっ!」 その言葉は、三成の後ろに控えた豊臣軍にもはっきりと聞こえたはずだ。 「兵は、たとえ軍略の犠牲になるとしても、それは一を殺して九を救うためだっ!それが大将、兵を率いる者の努めだろうがっ!」 城壁の向こうで、厳しい篭城にもたゆまず耐えている将兵たちが、賛同の歓声を上げる。 その声を聞きながら、三成は怒りに血の気を失っていた。 「おい、“佐吉”!」 思わず身が震えた。 何が怖いものか、豊臣の将軍が恐れなど抱くはずがない――三成を縛り、支える“三成に擬せられた意思”が必死に囁く。 「聞こえとるんじゃろ“佐吉”ッ!返事せゃあ!」 三成の本能は、自身の心に忠実に、三成の足を動かした。 「き、凶王様…!」 厳然たる軍律を保守する豊臣軍がどよめく。 三成は、愕然と足下を見つめた。 「なぜ……」 荒れた大地に、後ずさる足跡が深々と刻まれていた。 「…こんな…ばかな……」 睨みつける城壁には、赤く煙った空を負う清正がいる。 その口が開く。 三成は思わず身構えた。 「佐吉ぃっ!よう聞けゃあ、こン馬鹿たりゃあッ!」 頭上から落ちてきた雷に、覚えず心臓が跳ね上がった。 「おみゃあ、他人の言いなりも大概にせぇっ!おみゃあも男でなぁじょか!?あぁ!?」 尾張訛り丸出しで怒鳴りつけられるなど、この三成には初めてだ。耐性などあるはずもない。 衝撃でしびれた思考に、容赦ない叱責がたたみかけ、浴びせかけられる。 「こぎゃあ戦なんぞ止めれと、大将を諫めたか!己らぁのやっちょう事を省みたことはあるきゃあよ!それがどういう結果んなるか、少しでも考えたことあるンかぁっ!?」 ――何も考える必要はないよ 唯だ秀吉に全て託し、従えばいい 考える意思など、要らないんだよ 「黙れッ!秀吉様の遠大なお考え、この国の先を誠に憂えておられる秀吉様のお気持ちが貴様に解るか!解ってたまるかッ!」 「こン…ちきしょうッ!いつまで他人の言葉を真似とるんじゃあっ!おみゃあで考えたことはないんかっ!おみゃあの言葉で話せゃあゆうとるんじゃ!」 ――答えられないのかい だったら、それは君の意思じゃない 私は、餓鬼は嫌いなんだよ 「うるさい…!」 「あぁ?何じゃ聞こえん――」 「うるさい!うるさいっ!」 今度は癇癪、無感動で思考に乏しい凶王とは別人のようだ。 「貴様も、あの男と同じことを言う!何かを考えるが故に惑うのだ!惑えば強い国など造れん、いたずらに滅ぶだけだ!」 清正が、担いだ槍を巌に叩き付けた。 「…わかったぜ、この大馬鹿野郎」 あまり腹が立った一撃は、鑿痕荒い大岩にめり込んだ。 「自分の意思もない、民を支配する者として民に向き合おうともしないお前には、どれだけ襟を開いても、本気の言葉をぶつけても無駄だってことが、よくわかった」 俺はな、と清正は続ける。 「こっちの三成とは、今ひとつウマが合わねえが、人の上に立つってことで言えば、あいつは尊敬できる男だ」 「…殺す……加藤清正…!」 「けど、お前と話して、お前に敬服するところは一つもない――勿論、お前の仰ぐ豊臣ってやつにもな!」 「貴様の全てを…裁く…斬滅する!」 赤い陽が、二人の上に、全ての上に降り注いでいる。 |