宝物

□愛初め
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「お、お待たせしました」
 千鶴が期待と不安に胸をドキドキさせながら声をかけると、待合室のソファに座り、興味なさそうにぱらぱらと雑誌をめくっていた原田が、「ああ」と顔を振り向かせた。その琥珀の瞳が少女の姿を捉えた瞬間、驚いたように軽く瞠られる。
「千鶴・・・・・・」
 いささか呆然としたていで立ち上がり、名を口にしたものの、それ以上の言葉が出ないようだった。
 薫と一緒に暮らすようになってから     それと同時に、原田が千鶴のボディガードになってから、一緒に過ごす二度目の新年。少女は兄や原田のすすめに従い、今年は振袖を着ることにしたのである。以前は高価なものだからと、仕立てることを強く固辞した千鶴だったが、南雲財閥当主の妹である以上、振袖の必要な社交場への出席もあると押し切られ、けっきょく一から仕立ててもらうこととなった。
「あ、あの・・・・・・あの・・・・・・、ど、どうでしょう、か・・・・・・?」
 千鶴はかろうじてそれだけは口にしたが、あまりに上等な振袖に気おくれして、どうにも顔が上げられない。
 少女が身にまとうのは、シックなえんじの地色に、白、淡いピンク、薄紫で描かれた桜や梅の花が、美しく艶やかに咲き乱れる振袖だった。暖色系のぼかしが上品さを醸しつつ、ところどころ花の中に配された毬が、とても愛らしいアクセントとなっている。
 友人の千姫に紹介してもらった、ビューティーサロンの人気アーティストの手によるヘアスタイルは、軽いカールをかけた髪を高い位置でゆるくまとめ、ウェーブを生かすように、顔の左側に一房たらして、大人っぽさを演出していた。その一房の髪に添うように、縦に垂れるようなデザインの、白い花飾りがつけられている。真珠のように光沢のある生地で作られ、清楚なイメージの白にもかかわらず、色々な花を束ねたブーケのように華やかだ。贅沢に使われた七色に輝くビーズが、動くたびに煌いている。
 たとえそれがカジュアルな普段着であっても、千鶴が新しい服を着たり、少し気の利いたコーディネイトをしたりすると、原田は目ざとく気づき、よく何かしらの声をかけてくれる。今日のこの晴れ着姿には、いったいどんな言葉をかけてくれるか、少女が俯き加減にもじもじしながら待っていると、聞こえてきたのは、長く深い吐息であった。

      た、溜め息つかれるなんて・・・・・・!

 そんなに似合ってないのだろうかと、千鶴が涙目になりかけたとき     、
「なんつうか・・・・・・綺麗過ぎて、言葉もねぇよ」
 戸惑い気味に、ぽつりと呟かれた。
 びっくりして思わず目の前の原田を見上げる。珍しく顔を赤らめた彼は、照れくさそうに視線をはずしながら、しきりと首の後ろをこすっていた。
「悪ぃ。せっかくお前が振袖着てくれたってのに・・・・・・気の利いたこと一つ言えなくてよ」
「そ、そんな・・・・・・」
 それはそれで、頬が熱くなるような言葉だ。原田のみならず少女までが照れてしまい、二人ともわずかに頬を紅潮させ、向かい合ったままとなる。だがすぐに、千鶴は原田に左手をそっと取られた。
 ほっそりとした薬指に光るのは、自分達の将来を約束する指輪。
「ちょっとだけ、もったいねぇ気もするな」
「え? ・・・・・・あ、ゆ、指輪     」
 昨年のホワイトデーに贈られてより、およそ十ヶ月。やっぱりまだ学生の自分が貰うには、婚約指輪というものは、あまりに高価なものだと思う。
「そ、そうですよね。高校生が身に着けるには、不相応に過ぎるものですよね」
「そうじゃねぇって。だいたい本音を言えば、学校に行く時だって嵌めて欲しいくらいなんだぜ」
「え、ええ!?」
 笑いながら勘違いを指摘され、おまけに握られた左手指先へと、愛おしそうに口づけまでされた千鶴は、顔から湯気が立ち上りそうなほど真っ赤になる。
「さ、さ、左之助さんっ・・・・・・!?」
「俺がもったいねぇって言ったのは、お前のその振袖姿だよ」
 原田は少しだけ困ったような笑みを浮かべ、愛する少女の艶姿を惜しんだ。
「早くお前と夫婦になりてぇのは山々だが、そうするともう、振袖は着れねぇだろ」
「あ・・・・・・」
 確かにそのとおりだ。せっかく仕立ててもらった美しい高価な着物なのに、卒業後に結婚する少女にとっては、それまでのわずかな間しか着られない。
 温かい大きな手が、そっと千鶴の頬に当てられる。眩しそうに自分を見つめる、琥珀色の眼差しの奥に、少女は陽炎のようにゆらめく欲望を見た気がした。その情熱の炎が激しくはぜ、己へと飛び火したかのように、身体の奥底から熱い疼きが生じてくる。
 淡い色合いのローズ系ルージュをのせた、千鶴のみずみずしいふっくらとした唇が、喘ぐようにわなないた。沈黙に耐えかねて何か言おうと思うのに、何を言えばいいのか、しだいに強くなってゆく疼きに邪魔され、まともに考えることすらできない。

      口づけして欲しい・・・・・・

 無意識にではあったが、まるで誘うかのように少女が小さく口を開く。ちらりと覗いた舌先の動きに、今度こそ原田の瞳の奥で、欲望がほの暗い火を灯した。
 どちらからともなく、自然と引き寄せられるように身を屈める原田と、その彼の胸に手を当て、もたれるように背伸びをした千鶴の唇が、まさにふれ合わんとしたその瞬間     。
「それ以上動くな! 少しでも千鶴にふれたら、強制わいせつ罪で訴えるぞっ!!」
 二人が婚約してからこっち、もはや聞き慣れてしまった少年の怒声がロビーに響き渡る。いわずと知れた兄の声に、少女は仰け反るようにして身を離し、原田はやれやれと口の中で呟きながら、慌てることなくゆっくりと姿勢を起こした。
 仕立ての良いスーツに、腕にコートをかけた南雲薫が、今にも噛みつきそうな顔をして、妹のボディガードを睨みつけている。
「か、薫・・・・・・!」
「強制わいせつはねぇだろ。婚約者にキスしようとしただけだってのに」
「そうよ! せっかくいいところだったのに」
 苦笑を浮かべて言った原田の言葉尻に、薫を非難する勝気な少女の声がかぶさった。千鶴以上に豪華な振袖をまとい、背後に護衛の君菊を従えた千姫が、腰の両側に手を当て、しかめっ面で少年の無粋さを非難する。
「馬に蹴られるくらいじゃ生ぬるいわ。いっそのこと、引きずられてどっか消えちゃえば?」
「うるさいぞ、鈴鹿のお転婆娘。他家の事情に口を差し挟むな。千鶴はまだ未成年で、俺には妹を守る義務がある」
 むっとしたように薫が言い返せば、千姫がふんと鼻を鳴らした。
「何が“守る”よ。小舅根性丸出しで、千鶴ちゃんの幸せの邪魔ばっかりしてるくせに」
「人聞きの悪いことを言うな。俺以上に、千鶴の幸せを願ってる奴なんかいないね。・・・・・・でなけりゃ、誰があんな女誑しとの婚約を認めるものか!」
「おいおい」
 愛する恋人の兄とはいえ、あまりな言われように、原田はさも心外だという顔をする。
「お前の目にどう映ってるか知らねぇが、俺は見境なく、女に声かけるようなまねはしねぇぜ。これでも好みにはうるせぇんだ」
「あんたの好みなんか知るもんか。突っ立ってるだけで女が寄ってくるような奴、俺から見れば充分誑しだ。千鶴が苦労するのは、目に見えてるじゃないか」
 苦々しげに睨んでくる薫に、今度は妹である千鶴が控え目な声で異議を申し立ててきた。
「は、原田さんが女のひとに注目されるのは、原田さんのせいじゃないもの。その・・・・・・、す、素敵なひとなんだから、仕方ないでしょ」
 自分の婚約者を、自ら“素敵”だと口にするのは、思った以上に気恥ずかしい。おまけに当の原田が、からかうように     それでいて嬉しそうに顔を覗き込んでくれば、なおさらだった。
「じゃあ訊くけど、千鶴は自分の結婚相手があちこちで色目使われても、何ともないってのか?」
「そ、それは・・・・・・」
 薫から随分と意地の悪い質問をぶつけられ、思わず言い淀んでしまう。本音を言うとそんな場面に遭遇したら、千鶴は心中穏かではいられない。もっともそれは原田の浮気を懸念するわけではなく、相手の女性に嫉妬二割、自分への劣等感八割の不毛な思いに捕らわれるせいだ。
 嘘のつけない性分から「平気だもん」の一言が言えず、千鶴は瞳を潤ませながら、つい俯いてしまう。すると、そんな少女の頬にすうっと指先を滑らせ、原田がさも嬉しそうに顔を覗き込んできた。
「俺がほかの女と話してたら、妬けちまうか?」
 どんなお堅い女性も蕩かすであろう、甘く艶っぽい笑みに、少女の頬が鮮やかに染まる。男のひとをこれほど色っぽく感じるなど、原田に出会うまで経験したことはなかった。いやそれどころか、千鶴は彼に出会うまで、恋をした経験すらなかったのだ。
「どうなんだ、千鶴?」
 蜜をたっぷりと含んだ声で、耳朶をくすぐるように囁かれると、それだけでもう、全身から力が抜けてしまいそうになる。
「や、妬けるに・・・・・・決まってます」
 耳まで真っ赤にした少女が、蚊の鳴くような声で、ようやくぽつりと応じた。
「だって・・・・・・、す、好き・・・・・・ですから」
 ああ、と原田が苦しそうに息を吐く。
「可愛くて、たまらねぇな・・・・・・!」
 彼の掠れた囁き声とともに、千鶴は不意に逞しい腕に引き寄せられると、羽根でふれるような口づけを受けた。
「     っ!?」
「こ、このセクハラボディガードめっ!!!」
「いいじゃないの! あれくらいのキス、挨拶みたいなものよ」
 そしてまたもロビーに響き渡る薫の怒声に、それを諌める千姫の声。
「あのー、皆さん・・・・・・。早く写真を撮って、初詣に行かれませんか?」
 千姫の背後に控えていた君菊が、疲れたような顔で控え目に提案した。
 ひとり腹を立てて騒ぐ薫を何とかなだめ、少女達の晴れ着姿     特に初めて振袖を着た千鶴を主体に、身内の薫や婚約者の原田、あげくに千姫まで混じって、千鶴が目を回しかけるほど何枚も写真を撮る。けっきょく午前中いっぱいを費やして撮影を終えると、ホテルのレストランでランチを取ってから、地元の大きな神社へと全員で初詣に赴いた。
 千鶴は頑として譲らない薫のエスコートを受け、反対側には友人の千姫と、それぞれ二人の背後に従う原田と君菊の五人で参拝をした。
 
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