憂いの夜半に優しい歌を聴きながら
声を噛み殺して涙を流すような穏やかな時間
そんな一日の最後を、彼が幸せという名の底無し沼にすりかえた。
一日分を生きた苦悩の何割りかを処理し
眠りへといざなってくれるそれは
今日への終止符と明日への布石を同時に打ち置くに等しい
つまりは安息の輪廻に身を委ねる
一瞬の
“オちる”感覚。
『La vie』
暗闇の充満した室内に彼の姿は見えなくて、重なれない心音は片割れだけでも響こうと努力を続けていた。
帰りを知らされずに待つ私は冷えたベッドに身を置いて、少しずつかたくなってゆく心臓を抱くも身体は冷たいまま体温は上がらない。
闇にとかしていた吐息を鳴咽に変えてみる。
ささやかな悪あがきだ。
でも、胸のしこりに厚みが増してゆくのは、やはり避けられない。
動けない身体を抱きしめたまま、“独りでふさぎ込むから、身動きが取れなくなるんだ”と、いつか彼――雷光が言っていたのを思い出した。
“私がいるのに”
そう伝えたかったらしい彼の言葉は笑えるくらいに不器用で、私はあの日、ある種興ざめた思いを胸に、口に含んだ錠剤を笑い声にのせて思わず吐き出してしまったんだっけ。
あたしが今もここに生きている理由だ。
耐え切れないものを涙にして流したって、その場凌ぎで、ただ一瞬をごまかしたに過ぎない、それは変わらないけれど、飲み下しきれない消化不良の部分は、あの日私をこの世界に留めた雷光に押し付けることにし、私はぎりぎりの淵に佇みながらも今という一瞬一瞬を切り抜け続けている。
空いたままの空洞を埋める何かをずっと探していた。
それを、彼が埋めたんだ。
そこに結論が与えられ、そう、つまり、“人は独りでは生きてはいけない”。
泣き顔を受け入れてもらえること、涙を拭ってもらえること、弱い部分を肯定してもらえることが人には必要で、生きる苦しみを独りでやり過ごすことなんか、人間には出来っこない。
日々量が増して行く胸の中の重い部分と言うのが、その証拠を突き付けた警告だとするのなら、独りではない今は受け入れることも易い、そう言えるだろうか。
彼はそう、言いたかったのだろうか。
寝覚が悪いと、見るに見兼ねてあたしを救った雷光と、自らの過去にがんじがらめにされ身動きとれない彼を、守りたい、そう疼いた鼓動の速さが雷光と同じものだったとするのならば。
あたし達は、偶然の中に必要性を見出だした幸運者に外ならなかった。
人間は、弱く脆く汚い分、互いにそれを補う本能を遺伝子の内に秘めていた。
多分、そういうことなのだと思う。
「雷、光……」
誰も居ないはずの暗闇に手を延ばすと、指先が肌に触れて、握り返される。
片手同士なのに包み込まれる感覚が、どうしてか落ち着く。
ただいま、と唇に振動が伝わって、そのまま優しいキスが落ちて来た。
桃色の頭をゆっくりあたしの首筋に埋めながら、見えないはずのあたしの涙を器用に拭い、彼は言う。
「どうして、かな」
二人だけの時に聞く彼の声は、決まって憂いを帯びている。
私にだけ見せる彼の暗闇だ。
不安と絶望と、踏みにじられた期待、希望を持ち帰っては、私にぶつける。
それを受け止める器として私が彼の中に存在している内は、私は生きている価値がある。
彼が私に与える安らぎだ。
雷光は重なっていた唇を離し、喉にこみ上げた言葉を放ちたそうに、うずくように少し口を開いて、でもその先を言わなかった。
“俄雨の目が醒めないんだ”
毎晩繰り返された言葉も、雷光が目を伏せるだけに簡略化されて久しい。
“泣いて、いいかい?”
と続き、
“ここで駄目と言えるなら、それは俄雨だけだ”
そう毎晩返していた言葉も、いいよと頷くだけのやりとりになって、やはり随分と時がたった。
私の涙と交わって滲みる雷光の雫が、握ったてのひらの中で沸き上がっていたもどかしさを消していく。
雷光の身体の深いところで生まれた、熱を帯びた鳴咽を耳に受けながら、彼が私以外何も感じなくて良いように、しっかり背中に手を回した。
身体を掻き抱く雷光の腕が苦しくて、殺されそうだ、と思ったけれど、逆にそのことで、今自分が生きていることを教えてくれる、こんな優しさを与えてくれるのは雷光だけだと、居場所を感じてしまう私はおかしいのだろうか。
過去の苦悩を断ち切って、新たな苦しみを背負った雷光の、自然と沸き上がるように零れ出て止まらないその雫は不思議と綺麗で、とても心を惹く。
思ったままを言葉にしたら、
「嬉しくないよ」
そう言って、自嘲気味に、でも少しだけ気が晴れたように彼は笑った。
雷光の穏やかな波長は、スポンジみたいにずっと空虚なままで居た私の感情に、よく浸透した。
いつしか声をあげて泣くことを忘れてしまう大人達の中で、忘れなくてよかったあたしと彼は、幸せ者だ。
受け入れること、受け入れられることで、自分達が今ここに存在していいことを実感出来る、低脳な支えでも、この瞬間があるからこそ、あたし達は、明日を生きられる、それは確かだ。
眠れない夜は必ず触れ合って、希望を掴むための懺悔というよりも、抜け出せない業に自ら薄墨を塗り重ねて行くようにも思える行為を繰り返し。
傷を舐め合う愛で良い。
私達はただ、互いなしでは生きていけない。
一時的にしか効果しない緩和剤を中毒のように貪って、そして明日へ、オちる、幸福な罪悪感を育む、私と貴方の、終われない人生。
fin.