高尚、純潔、優れた美人。
ああ、あと、心の美。
すべて、あいつを現してるもの。

「かみ…」
「かみ?」

ぽつりと漏らした言葉にも、律義に返す。
こういうとこが、こいつのモテる要因の一つなんだろう。

「髪の匂いか、それ」
「どれよ?」

伏せた目はそのまま、ゆるりと口角を上げて微笑う、
その笑い方が、好きだ。

「なんか、少しだけ香ってる。いつも思ってたんだけど…」
「跡部?」

暖房の効いた、忍足の部屋。
お気に入りの肌触りの良い、ふわふわとしたクッションを抱えて。
うつぶせに床に寝転んでいる。
自分の家では絶対にしない、こんなだらしない恰好。
忍足の声が心地よくて。

「なんや、言うてることめちゃくちゃやん。眠いん?」

テーブルを挟んだ向かいに座っていた忍足がようやく目線を上げた。
そして伸ばされた右手。
さらりと髪を撫でてくれるその仕草が心地よくて。
いつの間にかかけられていた、忍足曰くあたし専用だというブランケット。
縁取りは淡いピンク、白地の大きなピンクローズ柄。
部屋に来るといつも、これが置いてある。
忍足の家の柔軟剤の匂いがしてとても落ち着く。

「跡部、寝たん?」
「おきてる。なぁ、お前の髪、いい匂いする」
「髪?そうか?」
「うん、山桜。キツイ匂いじゃなくて、いつも、ほんのり香ってる」

十二月も半ばに入って、受験に本腰を入れないといけない時期。
言っても、氷帝はエスカレーター式だから、そのまま高等部にあがる奴らは新旧試験を受けるだけで。
それに落ちても、補習を受けて再試験に受かれば高等部に行ける。
他の公立の中学校に比べて楽と言えば楽なのかもしれない。
…今、髪を撫でている人物を含め、外部受験をするものを除けばの話だが。

「お前とすれ違ったり会ったりしたらいつも一瞬香るんだよ。甘すぎない、いい匂い。一瞬で消えるけど」

一瞬で消える。
お前みたいに。

「短いもんだよな、三年って」
「…そうやな」
「なんか、短いはずなのに、お前が居なくなることが想像つかないんだ」
「まだ受験もしてへんのに、もう居なくなること考えるん?」

クスリと笑いながら言う。
それに少しだけむ、として睨めば、ごめんごめん、と軽く謝る。
いつもの会話。
いつもと変わらない話のテンポ。

「忍足」
「なんや」
「あたし忍足から聞いたことないんだけど」
「何を」
「……わかってるくせに」
「ふふ、わからへん」

体を起こせば、ブランケットがずれる。
ぱさ、と軽い音を立てて床に落ちたそれを、いつの間にかそばに来ていた忍足が拾う。
テーブルには広げられた参考書とノート。
筆記用具が散らばっている。

「景ちゃんから聞きたいな」

あたしも忍足も、意図的に明言は避けてきた。
付き合い始めて、というか、そばにいるようになって、誕生日やクリスマスを共に過ごしたりした。
だけどそのなかで、形に残るものを渡しあったことはなかった。
確かなものなんて要らなかった。
来年も再来年もこれから先も。
一緒に居れると思っていたから。
あたしはそう思っていた。
でも、忍足はそうじゃなかったと、知ったのは部活を引退してからだった。

「あたしは忍足から聞きたい。忍足が言わなきゃ、言わない」

座り直してベッドにもたれる。
クッションを膝に抱えて、頬を埋める。

「忍足のウソ、今だったら許したげるし」
「ウソて、ひどい言われようやな。本気かもしれんやん」
「“かも”って言ってる時点で、ウソじゃねえか」
「口悪いなぁ、そんなとこも可愛いけど」
「欲しいのはそれじゃない」

クッションに埋めたから、忍足よりも頭の位置はずいぶん低い。
だから、隣に座った忍足があたしの後頭部に重なってきたのがわかる。
忍足の吐息が直接地肌に伝わる。

「景ちゃん、いい匂いするな」
「ヘンタイ」
「さっきおんなしこと言うてたやん」
「言い方がヘンタイっぽい」
「やかましいわ」

忍足が喋るたびに、笑うたびに振動が伝わる。
こんなに近くにいるというのに、言葉を聞けないなんて。

「山桜…花言葉は“あなたに微笑む”。俺はいつだって、跡部には微笑んでたつもりなんやけど」
「あんな嘘くさい笑顔なんかいらない」
「ふふ、ひどいなあ」

忍足が顔を上げるのがわかる。
その瞬間、またふわりと香った。
誰のものでもない、忍足の香り。
この香りはいつもあたしを落ち着けてくれて。
忍足が居るってことを教えてくれて。
忍足の存在を教えてくれてて。

「知ってる」
「ん?」
「お前が、あたしのこと見てたのも知ってる。ちゃんと微笑んでくれてたのも知ってる」

だから、確かなものを欲しくなった。
確かな“言葉”が欲しくなったんだ。
なんとなくそばにいて、明確な言葉を言わなかったあたしたち。

「そんなお前を見てて、どんどん好きになっていくのもわかった。自分が自分じゃなくなっちゃうって、初めて怖いと思った。こうやって、泣きそうになるのも、わがままを言うのも。いつものあたしじゃないのに…」

その香りがあたしを狂わすんだ。
許されると、錯覚させてしまうんだ。
その、山桜の香りが。

「知ってるか?山桜のもう一つの花言葉」
「知らん、なに?」
「……“夢路の愛情”。お前の気持ちは夢なんだ。夢、幻、幻想。どこにも、本物はない」

夢の中で、お前に想われるあたしが羨ましい。
現実でどんなに好きだと叫んでも、夢の中には勝てないから。

「俺の気持ち勝手に決めつけんといてくれる?」

いくぶん冷たくなった声が、暖かな部屋に響いた。

「おしたり…?」
「それを言うたら、お前やって今まで言葉にせえへんかったやろ。確かに俺が言葉にしなかった理由はお前とは違う」
「………」
「でもな、お前に拒絶されたら怖いって、珍しくびびってもうたのも事実や。俺やって、いつかは離れるってわかってて、残酷なことはしたくなかった。それくらい好きやった」

クッションが抜き取られる。
両肩をつかまれて忍足と向き合う。
声は冷たかったけど、目は優しかった。
微笑んでいた。

「知ってる?夢とか幻とかな、いくら言うても」

前髪を指が撫ぜる。
額に落ちる唇。
初めてのぬくもり。
どれだけ一緒にいたとしても、絶対に超えなかった一線。

「ホンモノには敵わへんねん」

顔を包まれて引き寄せられる。
どのタイミングで目を閉じるとか何もわからないから。
触れ合うその瞬間まで見つめあっていて、その瞬間まで忍足は微笑んでいて。

「好きやで、きっと、今まで出会った中でこんなに心が乱される子に会うたのも初めてで、俺やってどうしていいかわからん位に悩んだんや」

最近は日が落ちるのが早くて、夕方五時でももうあたりは真っ暗。
今日は忍足のお母様が夕ご飯をご馳走してくれるらしいって、それはお邪魔した時に忍足から聞いた。
その、お母様から声がかかるまでただ、手をつないでいた。
忍足は参考書に目を通して、あたしは窓の外を眺めてた。
この距離に、なんだか泣きそうになった。

「景ちゃん、うちの嫁にけえへんかっておかんが言うてたわ」
「いつの話になるんだよ、それは」
「遠くない話やと思うけど?」

くすくすと忍足は笑う。
迎えの車が来て、外まで見送り。
冷たい風が吹いたときに、また、あの香り。

「山桜だ、やっぱり」

バタン、とドアが閉まる。
忍足が手を振る。
あと何回、これを繰り返すことができるのだろう。
走り出した車の中で、山桜の香りがしたのは幻覚だろうか…。

































2011/12/14


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