優しくなんかない。
俺はただ、ずるいだけ。
高校生になった。
早いものでもう五月も半分が終わろうとしている。
冬服が中間服へと変わり、そしてあとひと月もすれば夏服へと移行する。
陽射しが強く、少し歩くだけでもじんわりと汗がにじみ出るくらい最近の気候は温かい。
そして、五月病真っ只中の、俺。
「あー、やる気出えへん」
「いつものことやん」
「いつも以上に」
「いつも以上やったら、お前死んでるて」
そういうお前もなんでここ居んねん、と言えば、それは綺麗にスルーされる。
誰もいない空き教室。
時間は昼の二時を回ったところ。
なぜか向い合せに座る、俺と謙。
「お前がサボりて、珍しいな」
「うちかて、たまにはそんな日もあるわ」
「なんや、悩み事か?侑士兄ちゃんが聞いたろ」
「ふはっ、なんや、懐かしいな」
「ほんま」
高校生になった。
そして、早くも一年が過ぎた。
俺たちは二年生へと進級していた。
何かが変わったというわけでもない。
ただ、後輩ができただとか、学校に慣れてよくサボるようになっただとか。
自分自身の変化はあまり感じられなくて、そして、将来のことも曖昧で。
そんなぼやぼやした心情が現れているのだろうか。
俺は二年に上がってから、サボる回数が急激に増えたそうだ(がっくん談)。
「なんで同い年やのに、『侑士兄ちゃん』て呼んでたんやろ」
「生まれ月の違いやろ。小さい時って、生まれた月が数ヶ月違うだけで体格とか全然違かったやん」
「まぁなぁ…しかもうち三月生まれやし」
「あと二週間遅かったら、ほんまに俺『兄ちゃん』やったで」
「良かった、二週間粘らんで」
高校生になって、謙は綺麗になったらしい。
俺はイトコだし、家も近所やし、同じ学校に通うようになったから毎日のように顔を合わせる。
それこそ、休日まで一緒に居ることもあるから、余計に気付かない。
四月くらいだっただろうか、白石が階段の踊り場で謙をとっ捕まえて、わーわー騒いでいたのは。
ほんの一ヶ月前のことなのに、ひどく昔のような気がして、懐かしかった。
「なあ、侑士」
「なん?」
「侑士は、……その、医者を目指すん?」
一瞬の戸惑いは、きっと去年の年末のことがあったからやと思う。
俺とおとんの壮絶な喧嘩を、謙は目の前で見ていたから。
そして、謙自身もまた、将来がはっきりしないままでいるから。
「んー…どうなんやろ…でも、結局そうなるやろなぁ…」
「それで、ええの?」
「でも、それ以外、選択肢が見つからん」
他になりたい職業があるわけでもない。
かといって、医者だってそんな簡単になれるものでもない。
そう、本来ならこんなとこでサボっている余裕なんてないはずなんだ。
(そうなるしかない未来に対する、ちょっとした反抗や…)
ふわりと、カーテンのレースが風で膨らんだ。
とても柔らかくて、心地よい風だった。
ちらりと見えたグラウンド。
その中に、日ときは輝く彼女の姿を見つけた。
「あ、跡部」
思わず呟くと同時に、カーテンが元の位置に戻る。
視界は遮られて、跡部の姿も見えなくなった。
いつかの、俺らの未来のようで少しの切なさとたくさんのいらだち。
「医者くらいのレベルやないと、跡部に釣り合わん」
そして、こんな不純な気持ちで人の命に携わっていいのかという、罪悪感。
高校生は、中学生より、デリケートで多感な時期だと俺は思う。
ちょっとのことで、悩んで落ちて立ち直れなくて。
中学生ほど子供じゃないけど、大学生ほど大人じゃない。
俺らの、いまの、この微妙な立ち位置。
「侑士」
「ん?」
「優しいな」
「……は?」
今の会話の、どこに『優しい』要素があった?
なぜかニコニコとしてる謙をにらんだ。
「だってな、跡部ちゃんが恥かかんように、跡部ちゃんのそばにずっと居れるように、相応の立場を手に入れようとしてるんやろ?ふつう、そこまでできんで。侑士、すごいな」
謙はあまりにも俺を美化しすぎてる。
そんな綺麗なものじゃない、そんなこと言われるようなおもいじゃない。
ただ、…俺はただ、跡部を――。
「おい、お前ら。そろってサボりか」
ガラリとあいた、教室の扉。
立っているのは体操服姿の跡部。
…と、その後ろからひょっこり顔を出した不二。
「ふたりってさ、仲良いよね、ほんと。妬いちゃうくらい」
ね、けいちゃん?とからかうように不二は言った。
「けいちゃんって呼ぶな。…それと、別に妬いてない」
目元をほんのり色づかせて、ふいとそっぽを向く。
世間一般から見たら、跡部は綺麗な部類に入るのだろう。
けれど、いま、目の前にいる跡部はとても可愛くて。
跡部とそういう関係になってから、跡部のことが可愛くて可愛くて仕方なくなって。
「そう?ここに忍足くんたちがいるって気付いてからずっとそわそわしてたくせに」
「なっ!」
クスクス、楽しそうに不二は笑う。
目元だけの色づきが、顔全体に広がった。
「ほんじゃ、跡部ちゃんがヤキモチ妬いてまうさかい、うちは退散するわな、侑士」
「おい、あたしは別に…っ」
「じゃあ、僕も。教室で待ってるよ、けいちゃん。着替えの時間も考えていちゃついてね」
「不二っ!!」
「おん、お気遣いおおきにー」
「おまえも…っ」
ひらひらと手を振って二人を見送る。
残った俺と、跡部。
相変わらず、顔は赤い。
「跡部、こっち来おへんの?」
「……っ」
いつまでも入口に立っている跡部にそう声をかけたら、しぶしぶ、といった感じで扉を閉めてくる。
「……最近、サボりが多いな。おまえ」
「そうか?」
「ああ、いつも一緒だ…」
誰と、なんて聞かなくてもわかる。
この子は謙のことをとても気にしているから。
「疑ってるん?」
「ちが…っ」
「心配せんでも、謙とはそういうのと、ちゃうよ。イトコってのもあるし、今置かれてる境遇がおんなじやでなんとなく一緒に居るだけや」
「……」
「納得できん?」
ふるふると首を横に振る。
でも、表情は冴えないままだ。
何が、彼女の中で引っかかっているのだろう。
(いつから、こんな距離ができてもうたんやろ…)
椅子に座っている俺と、そばに立っている跡部。
片腕を立てて、もう片方の腕を枕に跡部の方を向いて机に頭を預ける。
「なんで、」
「うん?」
「なんで、なまえ…」
跡部らしくない、弱々しい声。
一瞬呆気にとられるも、すぐに思考回路は復活する。
そして、こんな状況でも、俺は、
(可愛え…)
自分に必死になっている跡部を見ると、優越感に浸ってしまう。
不埒なことを考えてしまう。
俺の言動ひとつで、跡部はこんなにも動揺するんやって、
実感して、
安心して、
自己嫌悪に陥る。
「高校に上がってから、名前で呼ばなくなったな。あたしのこと」
「…けいちゃんって呼んでほしかったん?」
「そうじゃない。誤魔化すな」
弱々しい態度から一変、キッと強いまなざしで俺を見つめる。
その瞳があまりにも真っ直ぐで、澄んでいて。
「自分がどれだけ穢れてるか、思い知らされるんや…」
「は?」
今度は跡部が呆気にとられる番だ。
全く脈絡もない俺の返答に目を丸くする。
「跡部は綺麗なまんまやな、こんな俺と付き合うてるのに」
「…こんなって、どういう意味だ」
「そのまんまの意味やで」
「それは、あたしを侮辱しているのか」
なんで、そうなる?
どこで跡部の地雷を踏んだのだろう。
名前で呼ばなくなったから?
質問にちゃんと答えなかったから?
心当たりがありすぎて、言葉を返せなかった。
「お前を好きだと言ったあたしを、否定するのか。どんなおまえでも好きだって、そう思ったあたしを、」
本当に、好きになってくれないのか――
思うよりも、考えるよりも先に。
衝動的に。
身体が動いた。
腕の中に、その愛しくて愛しくて仕方がない存在を閉じ込めたかった。
「寂しいんだ、急に名前で呼ばなくなって。距離が広がった気がした…。ゆずるのことは名前で呼ぶのに、あたしのことは名字に戻った…。いつまでも、侑士はあたしをみてくれないって、思い知ったんだ」
背中に回る腕、きっと、彼女の中でのありったけの力を込めて抱きしめ返しているのだろうけど。
(この子は、こんなに力のない子だっただろうか…)
いつの間に、こんなに小さくなったのだろうか。
気付くのが遅すぎた。
そんなつもりはなくても、距離が開いていたんだ。
名前で呼ばなくなったのに、明確な理由なんてなかった。
ただなんとなく、だった。
そう、本当に、ただの思いつきで。
「…理由なんてない。なんとなくや。跡部と距離を置きたかったわけでも、背中を向けるつもりでもなかったんや」
「……そうか…」
「ごめん、ごめんな、――景」
今まで以上に、好きだと思った。
こんなにまっすぐ気持ちをぶつけてくれる彼女のそばに、もっと居たいと思った。
でも、そう思う一方で。
(こうやって、どんどん深みにはまって、俺から離れられなくなればいい――)
そう思う、俺がいた。
なあ、謙。
俺はやっぱり優しくなんてない。
俺はただ、この何にも代えられないこの存在がずっと俺のものであるようにと
それだけを考えているんだ。
そればかりを思う俺は、優しくなんかない。
ずるくて、歪んでいるんだ。
「景、好きやで」
一生、離れられなくなればいい。
2012/03/14