気まぐれであることはわかっていた。
あいつが俺に興味などないことなんて、はじめからわかっていた。
それなのに、その“ゲーム”に乗ってしまったのは、俺も暇だったからだ。
……暇だったから、だ。




『アジサイ』
(あなたは冷たい)






跡部を呼ぶほとんどの者は、“様”と敬称づけて呼ぶ。
それは、女子生徒のように羨望を含んだものでもあり、男子生徒のように皮肉を含んだものでもあり。
跡部自身、そのような環境には慣れているし、妬み嫉みで行動を起こしてくる奴らに負けるほど弱くもない。
それ以外で跡部を呼ぶものは、テニス部の人間に限られてくる。
親しみを込めて“部長”と呼び、仲間と認めて“跡部”と呼ぶ。
この広い学園の中で跡部が最も跡部でいられるのは、このテニス部だけなのであろう。

そのテニス部に最近入部したとある人物が注目されている。
監督直々にスカウトし、関西から転校してきた男子生徒だ。
宵闇色の長めの髪に、柔らかな物腰。
すらっとした身長に、長い手足。
誰に対してもやわらかく微笑み、対応する。
前髪と眼鏡でたまにしか見えないその顔は整っていると、女子生徒が騒いでいる。
周りの注目は、その容姿だけではない。
監督が直々に連れてきただけあって、その実力もさることながら、決して本気は見せないのだ。
跡部はそれが気に食わなかった。
テニスを馬鹿にしているのか。
監督もなぜこのようなふざけた人物を連れてきたのか。
不満はたくさんあった。
だが、本気を出さなくとも軽々と勝利を勝ち取っていく。
それがなおさら跡部の神経を逆なでしたのだ。
常に本気で、決して手を抜かず、勝利だけを見据えて、戦う。
自分がそうであるからなおさら気に食わないのだ。

低く心地よい声で発せられる関西訛りの言葉で『忍足侑士』と名乗る。

その人物を、跡部は苦手としていた。

だが、自分がこのテニス部の部長である以上関わらないわけにはいかなかった。
中途半端なこの時期に転校してきたその人物のお世話係というべきか。
とにかく、しばらくの間面倒を見てやってくれ、と学校直々に頼まれたのだ。
しかし、クラスも違えば、部長である自分がたった一人につきっきりでいるわけにはいかない。
ある程度のことを教えれば跡部はダブルスパートナーに任命した向日に残りを任せようと密かに決めていた。

跡部は、苦手なのだ。
その『忍足侑士』という人物が。

誰にでも優しく対応するその姿は、決して自分の中に入ってこないようにさり気なく拒絶していて。
長い髪と眼鏡で隠すその表情は表面上は微笑んでいても、瞳の奥は冷え切っている。
暗く冷たい水の底のような。
ひんやりとしている。
自分に対して、そこまで冷ややかな目を向けた人物は今まで誰もいなかった。
周りの女のように熱烈な視線でもなければ、自分を妬むある意味情熱的なものでもない。
跡部に興味がないのだ、忍足は。
跡部も、彼にとってはその他大勢にすぎない。
だからこそ、苦手なのだ。
どう扱っていいのかわからないのだから。

そんな二人の関係に変化が生じたのは、日も随分と長くなった6月のこと。
そろそろ梅雨入りで、ほんの2ヶ月ほど前まで爽やかな風が吹いて過ごしやすい気候だと思っていたのもつかの間、すっかりじめじめとした蒸し暑い気候へと変わり始めた頃だった。
その日はいつもより遅くなったのだ。
特別な理由はなく、ただ、なんとなく遅くなっただけだ。
ようやく部誌も書き終えて背もたれにもたれてため息をつく。
時計はすでに20時を示そうとしていた。

「なんや、跡部か」

突然かけられた声に柄にもなく肩をびくつかせた跡部に声をかけた本人――忍足はピクリと眉を動かした。

「部室の電気がついてるから、太郎かと思たわ」

言いながら、当たり前のように跡部の隣に腰掛ける。
怪訝そうに眉をひそめて、それを一睨みしたあと、さり気なく忍足と距離を取った。
それに気づいたのか、クスリと笑う忍足にさらに眉間にしわを寄せた。

「跡部ってほんま、俺のこと嫌いやんな」
「わかっているなら離れろ」
「それは嫌や。だって俺、跡部のこと好きやし」

嘘をつくな。
思わず口にしそうだったその言葉を飲み込む。
言ってしまえば忍足の思うつぼのような気がしたからだ。
転校してきてから2ヶ月ほど。
忍足は跡部との言葉の応酬を楽しんでいる節があった。
普段は冷たい雰囲気もその一瞬だけは和らぐのだ。
それに気づいてからというもの、跡部は忍足との会話を余計に避けるようになった。
馬鹿にされているような気がして腹立たしかったからだ。
乱暴に書き終えたばかりの部誌を閉じる。
跡部のその行動すら面白そうに眺めている忍足に余計にいらだちが募った。

「用がないならさっさと帰れ。もう閉めるぞ」

ロッカーから鞄を取り出す。
右手に持った部室の鍵を揺らして音を鳴らし、帰宅を促す。
聞いているのかいないのか、忍足は動く様子はなくて。

「おい…っ!?」

刹那。
ぐいっと腕を引き寄せられ、無理矢理に忍足との距離を縮められる。

「なに…!」

何するんだ、その言葉は忍足の瞳に吸い込まれていった。
冷たいのだ、その瞳は。
真っ黒で、深く深く引きずり込まれてしまいそうな。

「あー、やっぱり」

思わず身を固くした跡部を見て、口元だけを歪ませ、表情とは真逆の穏やかな声で忍足は呟いた。

「跡部の瞳、蒼いんやね」

目をそらしたいのに、そらせないのは。
つかまれている腕を振り払いたいのに、振り払えないのは。

「なあ跡部、俺と、」

温かさを感じない声色で紡がれたのは、それはそれは無邪気な言葉だった。





6月、俺たちの関係が歪んだ。
咲き始めたアジサイが綺麗に色づき始めた時期だった。

































2011/12/18



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