謙虚とか謙遜とか。
全く無縁のことだと思っていたし、そんな素敵な性格はしていないって自負している。
それに、真実の愛、だなんて。
まだ、はやいと思ってた。





「キンモクセイの香りですね」

部活を引退したその日の夕方、長太郎が言った。
いつものように、隣に並んで帰路についていた時のことだった。

「は?」
「キンモクセイ」

宍戸さんの香りです、と柔らかく微笑みながら続けた。
その表情は、初めて見るもので。
驚いたとか、そういうのじゃないけど。
なんだか違和感。
長太郎じゃないみたいで。

「キンモクセイって…なんだよ、トイレの匂いってことかよ?」
「違います。甘いんです。甘くて…でも、どこかもどかしいんです。食べられそうなのに、すぐに手が届きそうなのに、そこにはないんです」
「…?なんかよくわかんねえな…」

そう返すと、今度は寂しそうな顔をした。
言葉を間違ったか?、と思ったけど。

「…昔からキンモクセイの香りに惑わされるんです。はじめは、香っているだけでよかったのに、どんどん貪欲になってしまうんです。もっと、もっと……全部、俺の物に、って」
「長太郎?」
「宍戸さんからは、キンモクセイの香りがします。キンモクセイの香りは、俺を惑わします」

いつの間にか歩みは止まっていた。
自分よりも幾分も背が高い長太郎を見つめる。

「宍戸さん、…部活、引退しちゃったんですね」
「……ああ」
「寂しいです、とても」

まだまだ暑い、残暑の残る九月。
あたしの、誕生月。
キンモクセイが香るには、あとひと月。

「宍戸さんは気づいていたかもしれないですけど…俺、宍戸さんが好きなんです」
「……え?」
「ずっとずっと好きだったんです。俺、宍戸さんしか見えていませんでした」

話が飛びすぎだろ、とか。
いつものお前はどうした、とか。
ほんとはそんなことを考えられたらよかったんだろうけど。
実際には頭の中が真っ白で。

「な…んで、あたし、なんだ…?」

そう言ったあとの、長太郎の表情は、忘れられない。

あれから、三ヶ月。
十二月に入り、すっかり冬の寒さになった。
長太郎と会うことはめっきり減って。
たまに廊下ですれ違ったり、集会で見かけたりしても、声をかけることはなくなった。
むしろ、長太郎は目を合わせることがなくなって。
それが無性に寂しく思えて。

(……くそ…っ、なんなんだ…)

冬休みに向けてみんなが浮足立つ中、ひとり落ち込む。
理解できないこの気持ちの変化がずっとあたしを苦しめている。

「亮ちゃん」
「亮ちゃんって呼ぶな」
「悩み事?めずらしい」
「めずらしいは余計だ」

春だろうが冬だろうが、季節関係なく眠そうなジローはわざわざ人の机に来てまでうとうととしている。
言っても、もう放課後。
教室にはあたしだけ。
ここで寝られたら、まさか担いで帰るわけにもいかないし、どうしようもできない。

「鳳のことでしょ」
「…!なんで。べつに、あいつのことなんかで…」
「わかるよ、幼馴染だもん」

ふにゃふにゃとした笑いは力が抜ける。
ジローはこういうとこがあるから、憎めない。
岳と三人、幼馴染で。
あたしと岳が喧嘩をすれば、この笑いで仲裁に入る。
年頃になれば、男の子は女の子と距離を取りたがるのに、ジローはあたしたちから離れなくて。
ジロー曰く、『亮と岳と一緒のが、よく眠れるから』だそうだ。
あたしたちはいつだって、ジローに救われてきた。
そう言っても過言ではないくらい。
ジローは誰よりもあたしたちのことを見て来た。
あたしたちがジローをよく見て来たように。
だから、ジローは『わかる』と言った。
その言葉に、嘘はない。

「鳳と喧嘩でもした?」
「してない。…と、思う」
「あー…亮がまた言っちゃったんだ。余計なヒトコト」
「……」
「亮はさ、悪気はないんだよね。悪気はないうえにニブイ。救いようがないよね」
「う……」
「だから、無意識に人を傷つけちゃう。んで、あとからそれに気づいて、亮も傷つく。昔から変わらないよね、そういうトコ」

言われることが的確すぎて、何も返す言葉がない。
返答に詰まり、ちょっとムッとしながらジローの言葉の続きを聞く。

「そういう、優しいところ、変わらないね。ほんとに。…俺とか岳とかはさ、それをわかってるからいいんだ。他の子たちはさ、一時の付き合いだからいいんだ。でも、鳳はそれをわかっていてくれなきゃ困るよね」
「え?」

ジローが顔を上げる。
その顔は、大人になっている。
昔の、ただただ無邪気なあの表情ではなくて。
すっかり成長した、ジローの笑顔。

「これから先を一緒に過ごそうってそう望むんだったら、鳳は亮のそういうとこわかっててくれなきゃ。他でもない鳳が亮のこと傷つけるなんて許さないし。それに、今の状態でさ、なあなあで付き合うなんてさ、そんなの、」

あたしの顔を見て、にっこり笑って。
そして視線は教室の入り口へ。

「俺も岳も、鳳のこと許可しないよ?」

にやりと昔と同じいたずらな笑顔を向けた先には、何故か息切れをしている長太郎の姿。
ドアに片手を当てて、もう片方の手は自身の膝に。
まだ整わない呼吸を無理矢理に押し込めて、じっとあたしとジローを見つめる。

「意外に遅かったね、鳳」
「ジロー先輩…」
「もっと早く来るかと思ってたのに。亮への想いはそんなもん?」
「……っ」

いたずらにそういうジローの言葉に長太郎は、きゅ、と唇を噛み締める。
長太郎のこんなに悔しそうな表情は初めて見た。
この間から、初めてばっかりだ。
初めての長太郎ばっかりだ。

「……なんてね」

ぺろっと、舌を出してジローがおどける。

「岳のメールに惑わされたんでしょ。鳳は素直なんだからさ」
「…あれじゃ、わかりづらいです」
「うん、そうしてって俺が頼んだの。だって、あんまり早くに来ちゃったら、亮は自分の気持ちに気付かないんだもん」
「は?」

あたしのその声に、ジローが視線をあたしに戻す。
視線はこっちに戻ったけど、長太郎に語りかけている。

「なんとなく謝って、なんとなく仲直りして、なんとなく付き合い出して。そんなんで続くわけないっしょ。亮はね、ちょっとめんどくさい性格してるの。そのめんどくささも全部…とまでは言わないけど、理解してあげれる人じゃないと。結局のところさ、傷つくのは亮なんだから」

ところどころ、馬鹿にしたような単語が聞こえたような気もするけど。
そこはぐっと押さえて、ジローの言葉に耳を傾ける。
何よりも、いつも我関せずな感じで眠り呆けている幼馴染がこんなに饒舌に喋ることが珍しかった。

「ジロー先輩」
「ん〜?」
「俺、……」
「ふあぁぁ…俺、もう帰るわ。眠いし」
「おい、ジロー」
「じゃあね、亮ちゃん。鳳も」
「ちょ、」

言うだけ言って鞄を持ってさっさと帰る。

「あいつも、昔から変わんねーよな…」

あの、自由奔放さは。
そして、取り残されたこの気まずい雰囲気をどうするべきか…。

「……」
「……」
「あー…その…帰るか、……長太郎」
「……はい」

三ヶ月ぶりに長太郎の横を歩く。
こいつ、また背が伸びたのかな。
それとも久しぶりだからかな。
長太郎との身長差って、こんなにあったっけ。

「宍戸さん」

そんなことを考えていたら、ようやく長太郎が口を開いた。

「…ん?」
「すみません、」
「なにが」

言い方、素っ気なかったかな。
いや、でも、長太郎とはいつもこんな感じで喋っていたはず。
…あれ。
あたし、長太郎と話すとき、どういう感じで話してたっけ。

「俺、宍戸さんのこと、わかってたつもりでいました」
「ジローの言ったこと気にしてんのか?」
「……」
「まぁ、あいつは幼馴染だからさ。小さいころから一緒にいれば、そりゃ、なんとなくでわかるよ。仕方ねーじゃん、お前とは出会ってまだ二年なんだし。気にすん…」
「気になるんです!わかっていたんです、宍戸さんの性格も優しさも!わかっていたはずなのに…俺…」

悔しいんです、と眉を寄せて続ける。
きゅ、と握りしめられた拳が震えている。
あたしは、長太郎にこんなに強く言い返されたのが初めてで。
思わず顔を見上げた。

「宍戸さん、もう一度言います。言わせてください。俺、宍戸さんが好きなんです。ずっとずっと好きだったんです。今だけじゃない、これから先ずっと、一緒にいたいって思うんです」

泣きそうな顔の長太郎を見て、なんでか、あたしも泣きそうになって。
震える唇にきゅ、と力を込めて堪える。
それでも、わずかに震えているのが、自分でもわかる。

「…、長太郎…」
「この三ヶ月、ずっと苦しかった。宍戸さんとこんなに離れるのなんて、初めてだったから…この離れてる間に、宍戸さんの中に他の男の人が現れるんじゃないかとか、もしかしたら、もうそんな人がいて、俺のこと迷惑に思っていたらどうしようとか、ずっと考えてて…」

まっすぐな気持ちが、伝わる。
ここまでまっすぐに想ってくれているのに、自分はなんて答えたらいいのかがわからない。
長太郎のことは、嫌いじゃない。
だけど、そういう意味で好きか?と聞かれれば、よくわからないのだ。
恋愛の意味での、“すき”がわからないのだ。
だけど、もし。

「…あたしさ、わかんないんだ。そういう…好きだとか付き合うとか…どうしたらいいかわかんない…」
「…はい」
「けどさ」

もしも、長太郎の言う好きが“一緒にいたい”ということなのであれば。

「長太郎と一緒にいるのはさ、嫌じゃない。むしろ、おちつくし、なんか、時間がゆっくり流れてるみたいで、一番安心する」

実際は、すっごく早く感じるんだけどさ。と、目線をそらして続ける。
ふわりと風が吹く。
あの日とは違う、ひんやりとした風だ。
頬に突き刺すような冷たさが、少し痛い。

「長太郎のそばが一番よく寝れるし、長太郎と一緒だったら」
「……」
「ぜんぶが、うれしい」

ふ、とひとつ息をついてもう一度長太郎を見る。
目の前が歪む。
これは、さっきの風が目にしみたからだ。
きっとそうだ。

「……一緒にいて、いいんですか?」
「……」

こくん、と頷く。
声は出せない。
もっと涙が出そうだから。

「俺、すごく好きなんです。宍戸さんのこと」

触っても、いいですか?

返事を待たずに長太郎の手が髪に伸びる。
後ろまで伸びたその手が触れたのは、髪を結んでいるゴム。
するりと抜き取られて。

「…キンモクセイです。あまい」

広がった髪を一房。
掬い取られたそれは長太郎の鼻元まで持ち上げられて。
ふわりと笑った長太郎が、言った。

「…もう、キンモクセイの匂いはしねーよ」
「そうですね、終わっちゃいました。キンモクセイの季節」
「あんま、わかんなかった。…おまえのせいだ」
「ふふ、そうですか。じゃあ、責任取ります」
「言い方が軽い」
「俺は、宍戸さんが居れば、キンモクセイの季節なんて関係ないですから」

伏せ目がちに言う長太郎。
瞬きするたびに零れるあたしの涙。

「好きです、宍戸さん。宍戸さんを好きでいるだけで、幸せな気持ちになる。宍戸さんにもこんな気持ち、味わってもらいたいな」

さむいさむいきせつがきた。
キンモクセイの匂いはしなくなった。
青の甘い香りを感じることができなかったのは、少しさみしい気もする。





「キンモクセイの花言葉、知ってますか?『初恋、真実、陶酔』。あの甘い香りがあなたからするんですから、俺が惑わされる意味も分かるでしょう?」

































2011/12/14



[TOPへ]
[カスタマイズ]




©フォレストページ