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□君のいる日常 92
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夜んなって雨が降ってきたみたいやなあ。
俺は机に向かいながらそんなことを考えとった。

「侑士はまだ寝ないの?」
「ん?・・・うん、そうやな。もうちょっとやろ思てるよ」
「そっか・・・」
「水月は今日はもう、終わったんやろ?」
「うん」
「なら先に寝ててええよ。俺も終わったら寝るでな」
「うん、分かった。おやすみ」
「おやすみ。ちゃんと布団かけるんやで」
「子供じゃないよ」
「どうだかな」
「もう〜」

珍しいな。
いつもなら俺がまだ終わらんようなら、普通に「おやすみ」って言って寝るんに。
なんか俺、期待させるようなこと言ったかな、って、こら、なに言うてんのやっ。
水月はそんなこと期待するような子ちゃう、って・・・そうでもない、か、んふふ〜。
卒翻の締め切りが12月でな。
1ヶ月切っとるねん。
2週間くらい前に先生に見てもろて、大体のOKは出てるんやけど、あ、もちろん翻訳そのものに手を入れてもろたりはしてへんで。
体裁がちゃんと整ってるか、ってのと、ちゃんと進んどるかのチェックやね。
うちのゼミには俺を含めて4人おるんやけど、全員無事やった。
ただなあ。
先生が俺らにそれを返す時にな。
「OKだけど、翻訳がOKって意味じゃないからね」って言いながら、に〜っこり。
誰かが言いそうなセリフやなあと思って、帰ってから水月に言うたら「お母さんにそっくりだ」って笑っとった。
貴子さんに似てるんやんなあ。
似たもの夫婦とはよく言ったもんやで。
でもな、俺らとしたら、そんな風に言われたら嫌でももう一回全部見直すやろ。
おかげで4人が4人とも、やっと終わりが見えたと思った途端に最初っから見直すっていう終わりのない螺旋階段にはまり込んどるって訳。
やってなあ、それでいいのかどうかなんて誰にも分からんのやで。
いつもの課題やったら、ある所で先生が直すなりなんなりしてくれるんや。
あるいは、ゼミのみんなで考えるとか。
それがないんやもん。
一体、どこまでや、って話や。
それでもな、俺にはものすっご〜い優秀な編集者もどきがついとるやろ。
せやから、同じ螺旋階段でもなんとなく、雲の間から行き着く先が見えるって感じやねん。
他の3人は「水月ちゃんを貸せ」とか騒いどって。
誰が貸すか、っちゅうねん。
あ、でもな。
俺ばっかり楽な思いするのもあれやな、って思ってな。
それからちょっとしてから、研究室に水月に来てもろて、3人の卒翻を読んでもろたんや。
もちろん全部やなくて最初の方だけやったけど。
それでも結構分かるもんなんや。
翻訳だけやなくて書くもんてのは、やっぱり出だしが肝心やし、そこが一番難しい。
俺としては、そこを水月に見せて、感じたことを言ってもらえば、3人もだいぶ気が楽になるんやないかって思ってな。
自分のもんがどうなんか、ってのがどうにも分からんからきついんやから。
そしたらなあ。
ほら、水月って真面目やろ。
それ頼んだら、約束の日は3日後やってのに、3人の卒翻の元の本をな、全部読みよった。
さすがに全部は無理やで最初の章を読んだんやけど。
一応3つとも知ってる話なんやで。
それなんに、「英語で読んでおかないと無責任だから」とか言って。
ほんまにこの子はええ子やわ。
3人ともそれ聞いて泣いとったで。
でまあ、そんな感じで「水月に読んでもらう会」が開かれて。
斉藤さんなんて、どっから聞きつけたんかわざわざ時間、合わせてやって来とった。
後輩らもなんやいつもより多かったし。
みんな興味あるねん。
水月がなに言うかってな。
でもそないなことになってたもんやから、今度は逆に水月が緊張してしもて大変やったんや。
ただ、そこはまあ、女の子を笑かすことにかけては俺より上やってのを自慢にしとる(なんやねん、それは)斉藤さんがあれこれやって水月をリラックスさしてくれて。
ほんまに水月ってたいしたもんやで。
俺は感動してしもた。
まず読むやろ、そしたら「どういうことが気になっているところですか」って聞いて。
答えを聞くと、それについてどう思うか話して。
それから自分が感じたことを素直〜に言葉にしとったな。
遠慮してしまうかな、って思っとったけど、そんな心配は無用やった。
もちろんみんな、それこそ何年も先生に鍛えられとるんやから、そこそこできる訳で、まったくダメってなことはないからあれやけど。
ただ、3つ全部終わった後に言ったひと言が壮絶やった。
「あの・・・こんなことをここで言っていいのか分からないんですけど・・・」って言って俺の方をちらって見た。
ああ、迷っとんのやな、って思ったからな。
「遠慮せんで、ええんやで」って言ってやったんや。
そしたらな。
「父の翻訳みたいにしなくてもいいんじゃないかと思うんですけど・・・」やて。
いやあ、たぶんあそこにいた全員、息が止まったで。
続いてこうも言った。
「父の流儀っていうのがあると思うんですけど、それが絶対じゃないと思うし、これ変だな、って思うこともありますよね・・・?」って、お〜い、ここは「渋谷ゼミ」ですよ〜。
「これから手直しをするんですよね?だったら、少し無理して渋谷幸彦っぽくしたところを、自分らしい言葉とか文章にすればいいと思います」って。
俺な、これ聞いて思い出しとった。
よく言われとったんや。
「ねえ、この部分てさあ、侑士っぽくないね。作ってる感じがする」とかって。
そういう意味やったんやな。
俺はいつもそう言われると、俺らしい自然な言葉はどれやって考えて書き直したりしとったんや。
そういう意味やったんやな。
俺は普段から書いとるからそういう言い方をしたんやろな。
でも他ん奴らはそうやないから、はっきりと言ったんや。
それ以来、ゼミの全員が課題をやる時に「自分の本当に使いたい言葉とか文章はどれなんか」ってのをものすごく考えるようになって。
そしたらこないだ、先生に言われた。
「『誰かさんに読んでもらう会』からこっち、み〜んな、ものすご〜く自由になってて、僕、ちょっと寂しい」やて。
でも、こうも言ってたけど。
「それにしても、僕の娘ってたいしたもんだなあ」って思いっ切り顔、緩まして。
先生はちょっと反省したらしい。
自分のやり方を教えすぎたって。
もうちょっといろんな方向性も可能だってことをもっと言わないといけなかったって。
それを先生に言わせてしまう水月ってなんなんやろ。
貴子さんは「最近分かったんだけど、あの子って変わってるって言うより、超のつく天然なのね」って言ってたらしいで。
おいおい、そんなん昔っからやろって思うんは俺だけか。
でも俺、思うんや。
もし父親のゼミやなくて、違う誰かのゼミだったとしても、水月はそう思ったら思った通り言うんやろ、って思う。
そういう子なんや。
俺の大好きなそういう子なんや。
ん〜、ほんま、好きやなあ。
後で寝顔にチュッてしよ、って・・・ちょっとぼ〜っとしてしもた。
今日の分、ちゃんと階段登っとかんと後で大変やからな。
やってしまわんとな。


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