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□君のいる日常 100
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「侑士〜」

玄関の方から水月の声が聞こえる。

「どないしたん」
「どっちがいいと思う?」
「なにが」
「傘だよ、か、さ」
「迷っとる理由はなに」
「素材」
「素材?なんやそれ」
「こっちはつるつるで、こっちはかさかさ」
「つるつるとかさかさ?」

つまりは、ちょっと光沢のある素材と木綿ぽい素材と水月は言いたいのだが、何せ言語感覚がある意味ぶっ飛んでいるので忍足ですら時々こうなる。

「だから〜、ほら、触ってみてよ」
「あ〜、なるほど。こっちがつるつるでこっちがかさかさな」
「うん、そうそう。で、どっちがいいと思う?」
「今日はその格好で行くんか?」
「うん」
「なら、こっち。かさかさ」
「やっぱりそうか〜」
「なんや残念そうやな」
「こっちのつるつるの方ね、新しいから差してみたい気もしてたの」
「なら、差してけばええやろ」
「でもダメ。やっぱり今日はかさかさ。つるつるちゃんはまたの機会にね〜」

選ばれなかった傘に声を掛けながらしまう。

「もう行くんやろ」
「うん」
「今日は大学やんな」
「うん、今日はね、建築デザインの先生に教えてもらうんだ」
「建築デザイン?お前の卒論は源氏物語やないんか」
「そうだけど?」
「それと建築デザインがどう関わるねん」
「関わるよ。だってさ『建物の観点から見た源氏物語』だもん」
「ごめん、俺、よう分からん」
「だからね、あの時代の建物って今と違うでしょ?だからこそ、あのお話が成り立つ訳じゃんか」
「じゃんかって、まあなあ」
「だから、そこをクローズアップするの。それでね、設計図の書き方を教えてもらえるようにね、緒方先生からお願いしてもらったの」

水月はゼミには所属していないので、3年の時に大体の方向性を決めてからは国文科の教授である緒方に卒論についての指導を受けている。
人気のある教授だと激戦だったりするのだが、何しろ厳しいことで知られている緒方だ。
ほとんど競争率ゼロですんなり決まった。
とは言え、何でも自分で考えて自分で調べて自分で書いてしまうので、緒方には「少しは何か聞いてくれないとボケそうですよ」などと言われている。

「あ、もう行かなくちゃ。バスに遅れちゃう!」
「ああ、行っといで。気をつけてな」
「は〜い」

かさかさの方の傘を手に、いつものリュックを背負って出て行く水月を見送って。

「なんで国文科の卒論に設計図がいるねん。ほんまに俺の彼女はよう分からん。なあ、ちくわ?」

いつの間にか玄関にやって来て大好きな水月のことを見送っていたちくわに話しかける。
ちくわもにこにこ聞いている。
最近仲良しなんである。
「何だか最近、ちっくんが私より侑士の言うこと、聞く気がする〜」とか本当の飼い主が言うほどに。

「ちくわ、今日は雨やから散歩はあかんな」
「そうだね!」とは言ってないけど、言ったことにして会話は続く。

「お前の姉ちゃんて、訳分からんよな」
「うん、ほんと」言ってないけど。
「その訳分からんとこがたまらんのやけど」
「そうなんだ」言ってませんよ。
「なあ、ちくわ」
「なに?」言いませんからね。
「プロポーズっていつしたらええんやろな」

ちくわが人間で、しかもお茶を飲んでたら多分吹き出すとこでしょうけど犬なのでじっと忍足の言葉に耳を傾けています。

「さすがの俺もそこら辺は経験ないからなあ。分からんのや」
「そうだよねえ」絶対に言いませんけど、話の都合上、これから先は言っていることにして続けます。
「やってな、一緒に暮らしとんのやで?この先、結婚したってこのまんまやで?どないしたらええっちゅうねん」
「困ったね」
「ほんまになあ。どっかに『悩める俺の恋愛相談』はないんか。自分で自分に質問してみよかな。そしたら何か思いつくかもしれんよな」
「それは無理でしょ」
「やっぱり無理かあ。だいたいな、プロポーズどころか、いつ結婚したらええか、っちゅうのがそもそも大問題やで」
「そうなの?」
「そうや。やって考えてみい。とりあえず経済的には何とかなりそうな感じになってきとるんやで」
「そうなんだ、すごいねえ」
「いや、それほどではないけどもな。家賃は子供割引で安いし、それに共稼ぎやろ」
「そうだね」
「しかもや。水月が卒業したら今より稼ぐんは火を見るより明らかや」
「難しい言葉、使うねえ」
「このくらいはお前にやって分かるやろ」
「まあね」
「そしたら、親離れは問題なくできる。で、その先どうするねん、って話や」
「なるほど」
「こうなると一緒に暮らしとるってことが最大のネックになっとる気がしてならんのや」
「じゃあ別々に暮らしてみる?」
「いやいや、それはない。それはあかん。そんなんあり得ん」
「そんなに否定しなくても言いつけたりしないから」
「当たり前や。こんなん聞いたら泣き出すで」
「泣くね、絶対」
「そうや。俺と別々なんて多分死んでまうよ」
「兄ちゃんのこと大好きだからね、本当に」
「そうや、そこだけは絶対にお前にだって負けへんからな」
「僕と争ってどうすんの」
「永遠のライバルやろ、俺らは」
「まあね。それでどうするの」
「分からんから困っとるんやないか」
「そうだけど」
「そもそも結婚てなんや」
「同じ苗字になること」
「よく知っとんな」
「よく姉ちゃんが言ってるから」
「言っとんの?」
「うん。私と侑士が結婚したらね、ちっくんも『忍足ちくわ』になるんだからね、って」
「ああ、それはよく言うとるな。せやからそこが問題やねん。どのタイミングで同じ苗字になればええんか、ってことが分からんねんっ」
「まあ、頑張ってよ」
「他人事やな」
「まあね。今のままでも僕はあんまし困んないからね」
「お前、可愛くないな、あれ。何の音や?」
「電話だよ、電話。携帯電話。あ、スマホ?」
「お前、そんなことも知っとんのかい」
「まかしてよ」

電話が鳴っている。
正確に言えばスマホが鳴っている。

「ん・・・あれ、俺、寝とったんか・・・なんかものすごい夢見たで。ちくわがしゃべっとった、ってより・・・結婚なあ。ほんま、どないしよ、って、誰からや」

いつの間にかうたた寝をしていたソファから起き上がって着信を見る。

「堀川さんや。何やろ」

急いで電話をかける。

「忍足です。すいません、出られなくて。今日ですか?大丈夫です、時間あります。はい、分かりました。伺います」

話があるのだという。

「何かな、話って。ま、行けば分かるからええわな。仕度せな。ちくわ、悪いけどお前、留守番な」
「いいよ、まかして」言いませんよ。


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