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滄溟の月
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遠い昔の淡い夢。


私がまだ、ほんの小さな幼子の頃の。


懐かしい春のひだまりのような夢だった・・・・・・。










もう長く床に伏したままの颯佐様の褥(しとね)のそばで、能の歌をそらんじるのがあの頃の私の日課だった。


颯佐様は産み月近いお腹をさすりながら、柔らかく微笑んで私を慈愛に満ちた目で眺めている。


ふと、幼子の書物を追う目がぴたりと止まった。幼子は口をへの字に歪めて書物とにらめっこしている。


そして潔く、顔を上げた。


『颯佐さま、この漢字はなんと詠むのですか?』


分厚い書物の筋書きをなぞっていた幼子の指先がある漢字の上で止められている。


颯佐はゆっくりと幼子の手元を覗き込んだ。



―――滄溟―――



「それは“そうめい”と読むのです。“滄溟(そうめい)の月”・・・・・・梅の品種のひとつですね」


『そう、めい・・・・・・梅の名なのですか?』


「そうですよ。ほら、あの庭先に見える白梅が“滄溟(そうめい)の月”です」


そう言って颯佐が指さした先には、今まさに盛りを迎えて見事に咲き誇る一輪の梅の木が堂々と佇んでいる。


可憐な梅の花。ひとつひとつの花びらは丸みを帯びていて柔らかな印象を与え、それでいて甘すぎることはない。


その透き通った花の白さが清楚で美しい雅さを兼ね備えているからだ。


決してむやみに目立つことは無くても、その存在感は否めない。儚くも、美しい花だった。


「“滄溟(そうめい)の月”はまるで貴女のようですね、月代(つきしろ)」


颯佐の細い指先が幼子の頭を撫でる。


幼子はうすぐったそうに首をすくめ、頬を赤らめた。


「“滄溟”とは宵闇の薄暗い海原のこと。あの白梅はその海原を淡く照らす月のようであるところから、その名がついたのです。・・・・・・貴女は月の依り代(よりしろ)という名を持っているでしょう?」


『よく、解りません・・・・・・』


幼子が肩をすくめて困った顔をする。颯佐はくすりと苦笑して、幼子の頬をなぞった。


「貴女にはまだ早すぎたかもしれませんね・・・・・・」






何気ないあの頃の日常が大好きだった。



誰に対しても優しく慈愛に満ち、暖かい春のひだまりのようであった颯佐様を、母のように慕っていた幼い頃の私。


能の修練を積む傍らでいつも見守っていてくれていたあの人を失ってしまったのは、梅の話をしたひと月後だった。


颯佐様が最期の力を振り絞ってこの世に産み落とした赤子は、白火と名付けられすくすくと育っていった。


時は流れ、白火はあの頃の私よりも成長した。


そして私は日輪座を背負う太夫となった。


あの頃の、幼子だった私には颯佐様の言葉は難しくて解らなかったけれども、今ならばその意味を胸にすることができる。



―――青く薄暗い海原(うなばら)を、仄かに、淡く照らす月明かりとならんことを―――



この女人禁制の能の舞台で、私という女舞い手の存在がどうあるべきか。


颯佐様はその答えを私に示してくれた。


だから私は、能を愛し、芝居を愛し、雅楽(うた)を愛する役者として、最期のその時まで舞台に生きようと心に誓った。






―――そして季節は巡り巡って梅の香滴る今日この日、月代を太夫とした日輪座は、京の都の土を踏むことに相なったのだ―――。





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