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寡黙と憂鬱に咲く[14]


27.
「おい、晋助。いつまで眠っている!」

重力を失った身体が、地上に引きあげられていくのを感じ取る。
耳元でのやかましい説教が目覚まし代わりだった。
半分意識を休ませたまま大学に行ったせいか、気付いたらそこは教室、という、タトゥスタジオからの移動が、
ほんの一瞬の出来事のように思える。
隣にいるのもいつの間にか茶髪の沖田ではなく、堅物黒髪の桂だった。

「今何限?」
「覚えてないのか。呆れるぞ」

いつもはこちらの神経を逆撫でするような盛大な溜息だが、高杉は未だ浮遊感に苛まれていて、
大した反応も示せない。何だか眠いのだ。
口の中に仄かに残っている、沖田の作った早朝の味。布団の違和感。憂鬱さ。やるせなさ。そして瞼の重さ。

「お前のことだ。どうせ深夜まで遊び耽っていたのだろう」
「別に遊んでねえって…」

その手の話に鈍感なこの男でも、高杉が遊び人という認識はあるようだ。否、あるのか。
桂の場合は、遅くまでゲーセンに入り浸りとか、仲間と飲んでいるとかそういう発想かもしれない。
ああ、こいつに春はやって来るのかと、一応の友人として妙な心配をしてしまう。

心配と言えば、沖田は今朝も相変わらず顔色が悪かった。
彼の病は徐々に進行している。それは目に見えていた。
彼はいったい、どのような死に様を迎えるのだろう。自分はその時、傍にいるのだろうか。
その先を思いわずらえば、気が遠くなりそうだった。

「そういえば、土方は休みなのか?朝も顔を出していなかったようだが…」

教室を移動しようとしたら、桂がふと呟いた。高杉は足を止めて彼を見返す。

「来てねえのか?」
「そうだが。何だ、お前は知っているとばかり」

桂は疑問符を頭上に浮かべ、目を細める。
自分と土方が仲違いしていることは、誰にも知られていないようだ。
黙っておくのも気が滅入るので、周知の事実にしてもよかったが、向こうの反応が正直怖かった。

「風邪でも抉らしたんじゃねえか?」

真黒いものを覆い隠して、無難な返事をした。
土方が休んだことに関しては、どちらにせよ良い気分ではない。
本当にただの風邪ならいいと思った。

「メールでもしてやれ」と無責任にも面倒事を押しつけて、桂は早足で高杉を置いていった。
誰がするか。冗談じゃない。
大学館内の庭に落ちていた空のペットボトルを、高杉は苛立ちに任せて蹴りあげた。

次の授業で山崎と合流し、とりあえず受講する姿勢を試みたが、やはり途中から眠ってしまった。
山崎は親切な男で、取ったノートを見せてくれた。細かく書き込んである。
そう褒めると、彼は照れ臭そうに「ノートを書いたり、手帳を埋めるのが好きなんだ」と言う。
女子みたいな趣味だ。良く言えば几帳面。

「あ、そうだ。今日は土方くんの姿が見えないよね。どうかしたの?」

今度こそ、高杉は嫌そうな顔をした。
周りが非難の目を向けているように思えた。まるで尋問だ。
どうして自分に聞く。どうして他の奴に聞かない。わざと聞いているのか。いやがらせか。
考えるほど泥沼に浸かりそうだ。

「知らねえよ」

気が立った声で言い捨てると、山崎があたふたする。
何か悪いことを言ったのかと、彼なりに焦って自分の言動を省みている。
「ごめん、よく一緒にいるから、知ってるかなって」
山崎は悪くない。虫の居所が悪かったのかもしれない。


28.
週末、高杉は17時から23時のシフトで働いていた。
バイト先は駅前という立地条件の良いカフェだが、ディナーのピークを過ぎれば客引きは早い。
その日は比較的暇で、高杉は店長の目を盗み、洗い場でこっそりと携帯をいじっていた。
ピーク過ぎに液晶画面をあけたら、数日ぶりにメールで連絡が来ていた。

『明日9時30分に、『ゆめのくに』の門前でよろしく』

久々と言っても、業務連絡。
それでもその一報が自分の胸のひずみをほんの少しでも取り払ってくれたのは、自覚せざるをえない事実だった。
忘れていなかったんだ。正直ほっとした。
その数日間が妙な空白で、不安も覚えていた。

後はただメールに返信をすれば明日は保障される。
電話は、する必要ない。

高杉の手に力がこもった。
店長の声が聞こえる。「高杉、トレー溜まってるぞ」
慌てて携帯をしまい、扉の奥でアンバランスに重なっている食器類を片づけ、洗いものを始める。
洗浄機に投げるように入れて、まわす。

スピード勝負な作業を淡々とこなしながら、頭の隅で返信の内容を考えていた。
正確には、電話で返そうか迷っていた。
声が聞きたい。無性に。

「高杉、レジ入れる?ちょっと混んできちまった」

洗い場に仲間が入ってくる。
上の空で返事をし、洗い場を離れて店の表舞台に立つ。
声のトーンだけをいつもより少し上げ、表情もそれなりに繕った。
暫くレジを打っていると、今度はサイドから「高杉くん、次のお客さん終わったらドリンク手伝って」と女の声が聞こえた。
ちょっとしたピークらしい。急かされて、気が紛れていく。

閉店時間になり、ケーキの残りを摘まんだ。遅番組の特権だ。
仲間や店長と雑談を塗した後、店を後にする。

携帯を開いた。業務連絡を見なおす。
返信を選択して親指で素早く『了解』の二文字だけ打った。
送信ボタンを押して、高杉は深く息をついた。
臆病者のほうが逃げ切った。

自分の中で何らかの強い意志が芽生えた時に、妙な被害妄想が膨らんで遮ってしまう。
悪い癖なのだ。いやだ。

早く明日になってしまえばいい。
文章という形ではなく、会えば負の感情が浄化されていく気がした。
高杉は携帯電話の電源を切って駅に向かう。

自分の足音に耳をすませた。
早いな。風の音と混ざって不思議と心が軽くなる。

暫くすると足音がブれる。
風は相変わらず穏やかで、自分の足取りも一本調子だ。

踏み込んで一歩。踏み込んで、一歩。

意識して少し遅めに踏み込むと、不意打たれたように慌てる一歩。


「………」


高杉は足をとめた。
この鳥肌は、肌寒い季節の来訪のせいではない。
何かに襲われて振りかえった。

そこに人影はない。


(気のせい、か…)


この時間帯は人通りが少ないから、些細な音にも敏感になってしまうのかもしれない。
きょろきょろしている自分は、傍から見て挙動不審だろう。恥ずかしくなった。

(考えすぎなのかもな)

ふと自嘲の笑みがこぼれる。
踵をかえした。

一歩踏み込んだ。今度は風の音だけだ。
安堵してもう一歩踏み込む。風は緩くなる。もう一歩進む。
ややブれるように一歩。


「………」


止まる。高杉は鋭く身体を傾けた。
誰もいない。
あるのは決まって建物や、酔っ払って騒ぎながら歩いているサラリーマン集団。

(疲れているのか…?)

眠気があるのは確かだ。高杉は額を抑える。
こうまで幻聴が聞こえると、本当に具合が悪いのではと心配になる。
2、3度首を振って、内部のもやもやしたものを振り切る。
帰宅を急ごう。

足先を元の位置にする。かかとをあげた。
一歩。もう一歩。もう一歩。一歩。二歩。


一歩余分。


心臓の不規則なリズムが早打たれ、高杉は一気に張り詰めた。



「誰だ」



とうとう声をあげた。全身で風を切ったが誰もいない。
自分の呼吸が荒くなるばかりだ。
そばを通りかかった二人組の女子がじろじろ見てきた。
この男の子はどこに話しかけてるの、と言わんばかりに。

(そんな、たしかに…)

道行く人は高杉の行動を訝しげに睨んでくる。
やはり自分がおかしいのか。狐につままれた気分だった。
高杉は後ずさりしていく。そのまま地を蹴って逃げ出した。
急激に加速した自分の歩行。しかし早まったのは、自分の足だけではない。



(つけられてるっ)



明らかに自分の歩行速度に比例したもう一つの足。
猛ダッシュしようとしたが、行く手を阻んだのは横断歩道の赤。
大きなトラックに目の前を横切られ、高杉はよろめいてしまう。

自分を追いかけてくる足音が背後まで差し迫ってきたかと思うと、高杉は自分の影が膨らんだのを感じた。
いる。いるのだ、後ろに。
さすがの高杉も、いつもの冷静さを失って息をつまらせた。

唾をぐっと呑みこんだ。自分ひとりでどうにかなる相手だろうか。
得体の知れない正体と対峙する覚悟を瞬時に決めて、高杉は身体を丸ごとよじった。

闇夜に紛れて、黒ずくめの男の背中がそこにあった。

深々と帽子を被っていたその男は、高杉に顔を見られたくないためか、そのまま走り去って行った。

ほんの数秒の出来事で、高杉にそれを追う余裕はなかった。
男はオフィスビルと都市銀行の隙間の細道に入り込んで、そのまま姿を見せることはなかった。


高杉はその場で膝を崩した。
脈は少しずつ静穏になっていくが、恐怖の余韻に未だ身震いしている。


顔も分らない誰かに狙われていた。
高杉が怯えるのはこの事実だけで十分だ。

黒ずくめで、スタイルはよさそうだった。
動揺した身体の機能で覚えているのはこれくらいだ。
何が目的なのだろうか。
これがもし駅前ではなくて、まさに男が身を隠した細道に自分がいたとしたら、どんな目にあっていただろう。

傷害か。強姦か。最悪、殺されるか。
男はこうしている間にも、物陰からこちらの様子を覗っているかもしれない。

横断歩道の青が目に入ると、高杉は一目散に走った。
自宅までついてこられては困る。
駅の改札に入る前に、もう一度後ろを確認した。
サラリーマンが数人と、カップルが一組、仕事帰りのOLがひとり。
黒ずくめの男はいない。

あそこで諦めてくれたのだろうか。
それにしてもいつから自分を監視していたのだろう。
カフェのアルバイトをしている、というのは知られてしまっているかもしれない。
どちらにしろ、最悪だ。

(本気でヤり殺されたりすんのかな…)

電車に乗って漸く肩の荷がおり、高杉は心で苦笑をこぼした。
今までそのような危険に敢えて踏み込んでいた自分を、ある意味尊敬する。
自分を殺す相手の顔くらいは、拝んでみたいものだ。
死に様を見ていてくれるだけでも、感謝しなくてはならないのか。
ぼうっと上を見て、馬鹿げた妄想にふけっていた。

でも待って。明日までは。明日、あいつに会うまでは。

あの業務連絡のみのメールをもう一度読みたくなって、携帯を取り出した。
電源を入れる。
待ち受け画面になると、急に機器が振動した。
Eメール有り、になっている。

すぐさまメールボックスをあけると、その名前がふたたび、高杉の鼓動をせき止めた。


『明日泊まれるか?』


次の日は日曜日。バイトが朝から入っている。休日は長時間シフトだ。
泊まるのが体力的にきついとか、そういう細かいことは考えなかった。
ただ、これだけは迷わず返事を打った。

『大丈夫』と。

数分後にメールが返ってきた。
『閉園前に出て、ホテルに泊まろう』

お前も、俺を抱きたいと思っているか?

『いいよ』



そこで携帯を閉じる。目的地に到着するまで、高杉はずっと携帯を握っていた。


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