幼い頃、卵を暖めたことがあった。


それはとある養鶏所からもらってきたとか、育てていた鶏が産んだとかいうわけでもない、売り場に並ぶいくつもの卵のうちの一つだった。撫でればつるつるとしていて、見れば見るほど真っ白い卵を、何を思ったか抱いていた。母鳥にでもなったつもりだったのだろうか。もっとも子供ではなくなってしまった今、当時の思考回路を辿る事など到底不可能だが。

まあとりあえず、そんな訳で私は卵を暖めていた。卵は貴重だったから、当然ばれたら叱られる。こっそりと数日(正確な日付など覚えている訳がない)に渡って暖めた。その間、期待一色に胸を染めていたのを覚えている。何故卵を暖めたのかすら忘れているのに、都合の良いところばかり覚えているものだから、思い出は決まって恥ずかしい色をしているのだと思う。

しかし、終わりは呆気なかった。不注意で割ったのだ。
卵が落ちたときこそ悲鳴が出かかったが、ぐしゃりだかぺちゃだか形容しがたい音を立てて割れた瞬間引っ込んだ。何だか急激に冷めた。隙間から溢れる色は雛の鮮やかさなど微塵も感じさせず、でろりと地を這う液状のそれは生命とは程遠かった。見事なまでに子供の理想を打ち砕いたそれを、泣く余裕もなく虚しさでもって見つめていた。

私の泣き声はなかったものの、死んだ雛の泣き声を聞いた母がやってきた。怒られたが、それよりもこの卵が雛を孵さないと告げられた事の方がよっぽど堪えた。私の努力云々は関係なく、そもそも孵らないそうだ。どういう事かを尋ねる元気もなく、とにかくこれは卵の形をした偽の卵であって、雛鳥の宿る家でなかったのだと結論付けた。尚更虚しくなって、落ちていた殻をくしゃりと潰した。外面の、唯一本物の部分が壊れて大災害だろうと鼻で笑った。



「その時のね、虚しさによく似ているんだよ」

そっぽは向いていたくせに、きちんと話は聞いていたらしい。赤木は相変わらずの無表情でこちらを見た。

「何が」
「あんたと話してちょっかい出し合って飯食って寝る事」

へえ、と実に他人事のような返事をされた。別に怒りの類いは湧かない。何せその返事は読み通り、分かりきっていたからだ。よほど私は空虚と見える。

「で、あんたの小さい頃の阿呆な体験談と俺がどうなるわけ」
「別に卵とあんたが繋がるわけじゃないよ。卵は私の問題であってあんたとは関係ない、ただ卵と私たちが似ているっていう話」
「心外だな」
「でしょうよ。私もまさかこんな話するとは思ってなかったし」

二人くつくつと笑った。ちらりと赤木を見るとその口元はニヒルに歪んでいる。きっと私もおんなじ顔をしているに違いない。なんて空虚な会瀬だろう、いや、会瀬なんて言葉も仰々しいか。空っぽすぎて、なにもないのとおなじだ。

「で、何でそんな話をしたんだ」
「何だかね、あんたと会うたび思うんだよ。短い一言じゃ説明できない事をね。それをようやっと上手いこと表せそうだったから言ってみただけ」
「へえ、そうなんだ。ま、さっぱり意味は分からねえけど」
「でしょうよ」

別にこの男に理解など求めていない。私はただ、無精卵を暖める事に似ているという的確な表現を手に入れた喜びを伝えたかっただけなのだから。それにしても、いい表現ではなかろうか。無精卵。
結果を知っているくせに私も物好きだと忍び笑いをして、赤木が何をしているかちらりと見た。煙草をくわえて、何を考えているんだか、そもそも何か考えているんだか分からない顔をしていた。
男の色素の抜け落ちた髪や、血管すら見えそうに白い肌すらも、私にその卵を連想させるものだから笑いを堪えるのに必死だった。

その卵の中にあるのは一方的な雌の情だけで、外から見れば確かに卵なのだけれど、天地がひっくり返ったって中から何かが産まれる事はない。どんなに必死に暖めてみても。
ああ、虚しい。しかし母鳥に罪はない。素材が悪すぎたのだ。

「ねえ」
「ん?」
「あんたが何を言ってるか何て分からねえよ。どうせ偏屈な事って以外は」
「十分じゃないか」
「話は最後まで聞けよ。さっきはあんたのつまらない話を、そうはいっても最後まで聞いてやったんだから」

つまらない話とは些か心外だったが、まあ否定する理由もない。どんなにつまらない冗談だとしても最後まで聞いてやるかと思った。乗り気でないのを全面に押し出して、頬杖をついて赤木を見据える。

奴は、まだ長さのある煙草を灰皿に押し付けた。こちらを射抜く白とは正反対の色に、何故か背骨を衝撃が駆けた。

「キスしてやろうか」
「……は?」

つまらない冗談でも最後まで聞こうと思ったが、果たして笑えない冗談ならばどうすればいいのか。笑えなさすぎて動けない。やはり人間は想定外に弱いなあと思うあたり、多分現実から逃げていた。

「何言ってんだあんた。正気?」
「あんたこそ、俺にそんな質問するなんて正気か?」
「……狂気の沙汰だな」

とは言ってみたものの、どうすればいいのやら。赤木は相変わらず何考えているんだか分からない顔をしている。私もポーカーフェイスくらい磨いておくべきだったのだろうか。今更色々と野暮ったい事を考える脳味噌が笑えた。

「とりあえずあんたが本当に私の話を分かってない事は分かったよ」
「十分じゃないか」
「そうかな」
「なら隣の部屋でも行くか?あんたの事だ、どうせ万年床なんだろ」
「酷いな、色々と」

今まで一度だって言ってきた事ない類いの言葉を冷静に投げ掛けてくるものだからまた笑ってしまった。全てが現実味を失い始めている。まったく、どこまで無くせば気が済むのだ。このままでは卵黄すら消えてしまう。殻だけの卵なんて独りよがりより虚しいだろう、ただの張りぼてじゃないか。

「逃げるなよ」

突如として耳に流れ込んできた言葉は冷たかった。心のざらついた部分が不意に震えたようだった。

「例え話だ何だか知らないが、引きこもってるのはあんただろ。スカッとしろよ、返事ははいかいいえだ」
「……」

そういえば、虚しさに捕らわれてあまり気にしていなかったけれども。
あの虚しいだけだと思っていた経験の中に、唯一清々した場面があった。

「……随分と長い茶番だった訳か」
「誰のせいだ。で、返事は」
「そんなの決まってるさ」

既に腰に回っている手を撫でながら、赤木を見てにやりと笑った。悔しいけれど私の負けだ。理屈が通じない奴に、理屈を持ち出した私が馬鹿だったのだ。

「はい、お好きにどうぞ」

頭の片隅で、くしゃり、何かが潰れた。



無精卵に孕む


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