小説
□彼岸の岸辺に迷う衣
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それは、昌浩にとっては災難や不運としか言い様のない出来事だった。
兄達2人がそれぞれの出張から帰り、この邸に顔を見せていると話を聞いた昌浩は、陰陽寮から帰るなり邸の中を探して駆けていた。
「嬉しそうだな〜、昌浩」
「そりゃそうだよ。兄上達に会うのは久しぶりなんだから」
肩の上の物の怪に、昌浩は弾んだ声で答える。
その笑顔は純粋に喜んでいる時のもので、兄達を探す横顔を物の怪は愛し気に見つめた。
そんな眼差しに気付かず、視線を巡らせる昌浩。
ようやくその視界に、明かりの灯った部屋が目に入った。
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「うーむ…それはそれで、楽しいかも知れんのう」
「では、その様にしましょう」
「お爺様も兄上も…」
安倍の邸の一部屋では、頷き合う晴明と成親、その2人にやや渋い顔をする昌親の3人が、何やら相談をしていた。
車座になった3人の間にあるものは、色鮮やかな十二単衣と袿が1着ずつある。これが、今回の騒動の原因となる。
ばたばたと騒がしく廊下を駆ける足音が近付いてきて、部屋の前で止まり御簾を開く。
「兄上、長旅お疲れ様でした!お帰りなさい!」
「おお、昌浩お帰り」
「一日お疲れ様だったね」
兄達の顔が、末の弟の声に綻んだ。
「昌浩、調度いい時に帰って来たのぅ。ちょっと来なさい」
「…………」
同じ様な笑顔での晴明の手招きに、しかし昌浩は笑顔を引きつらせて返事をしない。
「なんじゃ、その顔は」
「……いえ、別に…」
そう言いながらも顔は相変わらず固いままだ。
その顔が、晴明の笑顔に対する不信感をありありと語っていて、物の怪も成親も昌親も思わず苦笑した。
当の晴明も渋い顔をするが、とりあえずそれ以上は何も言わずにいると、昌浩は晴明の隣に腰を降ろす。
昌浩が3人の中心にある美しい着物に注目するのと同時に、物の怪も肩から降りてそれに鼻先を寄せる。
「凄いな…これは柄といい材質といい、かなり高価なものじゃないか。どうしたんだ?」
細い爪の先でそれを突きながら、不思議そうに問うのは物の怪だ。
「それだけじゃないぞ。ほら、こっちにはこんなものもある」
言いながら自分の脇に置いてあった小箱を開ける成親。
その中には、色とりどりの石や金銀で出来た装飾品が入っている。察するに、この十二単衣に併せて付ける物の様だ。
「これは今度の出張の土産でな。昌浩、お前にやろう」
「え、俺に…ですか!?」
「ああ。渡したい女性がいるなら、あげるといい」
そういって鷹揚に笑う成親。
その隣で何か言いたげにしている昌親や、目だけで笑う晴明の事は、昌浩の目には入っていない。
彰子にきっと似合うだろうなと、自分の世界に入っている。
「藤花殿か?」
「え…!?あ、は…い」
それをズバリと成親に言い当てられて、昌浩は少し照れながらも頷いて見せる。
その途端成親はパン!と膝を叩き、「よし、決まった!」と嬉しそうな声を張り挙げた。
ビックリしたのは昌浩だ。
「え?え?」
顔を挙げて改めて兄と祖父の顔を見渡して、ようやく空気がおかしい事に気が付いた。
訝しむ昌浩と物の怪の視線を受け、晴明がパンパン、と手を打ち、勾陣と天一を呼ぶ。
「なんだ、晴明」
「参上致しました」
それまで何の気配もしなかった場所に神気が生まれ、女性の神将2人が顕現する。
「おい晴明、何を考えている…?」
何かを企んでいる気配を察した物の怪が、ジト目になって問い掛ける。
しかし晴明は敢えてそれには答えず、人の悪い笑みだけを返す。
これにはさすがに危機感を覚えた昌浩は、こっそり席を立とうとする。物の怪も敢えてそれを止める事はせずにいたのだが、そこをそれまで隠形していた六合が顕現し、腕を掴んで止める。