あの日の君は、
□蛙鳴蝉噪
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♂♀
彼女が倒れたらしい。
臨也は美雪を迎えに行ったのだが、会社の中は騒然としていた。
ベッドに寝かされていた彼女は、今は落ち着いたのか、規則正しく寝息を漏らしている。
臨也は美雪を軽々と抱え上げ、部屋を出た。
辺りは静まり返っている。
どうやら、彼女が寝ているからと近くの部屋には人を入れさせなかったらしい。
女性を横抱きしている男に、好奇の目を向ける人々。
それを無視しながら、自分のマンションへ急いだ。
しかし、ここは池袋だ。
なるべくなら出会いたくなかったが、遠くの方から自分の名前を叫ぶ声が聞こえてきた。
「いぃぃぃざぁぁぁぁやぁぁぁあ!!」
「うわ……マジ?」
何かが破壊されるような音がしたが、彼のことだ。
交通標識か、ガードレールでも引き抜いたのだろう。
ーー今シズちゃんに出会すのはまずいな……。
こちらには来ないでくれ。
そんな願望も虚しく、静雄が叫ぶ。
「そこに居やがったか、臨也くんよぉ……」
周りの人間は危険を察知してか、避難しており誰もいなくなっている。
臨也は諦めを含んだ笑顔で振り向いた。
力が抜けているため、美雪の足が揺れた。
臨也に抱えられている彼女を見て、静雄は僅かに目を見開いた。
「おい……美雪に何した……?」
先程よりも格段に低くなった声のトーン。
きっと、彼女の意識を失わせたのは自分だと勘違いしているのだろう。
美雪を抱えている今は大丈夫だろうが、一人になった瞬間に自動販売機を投げつけられてしまう。
「……美雪が倒れたから、俺が迎えに来たんだよ。早とちりは駄目だよ。シズちゃんてさ、ホント単細胞だよねぇ。別にいいじゃん。美雪を取って食おうって訳じゃないんだからさー」
「いいか、美雪に何かしやがったらぜってー殺す!」
標識が真ん中から折れそうな程、ひしゃげてしまっている。
ーー美雪のことになると、見境がなくなるんだから。……いい加減諦めてくんないかなぁ。
「今、美雪にとって池袋は危険なんだよ」
「……どういう意味だ」
溜め息を吐くと、静雄が舌打ちをした。
溜め息が嫌味のように聞こえたかもしれない。
実際、本当に嫌味なのだから、仕方ないが。
「前に言った"シュウコ"って女、いたじゃない? ソイツが、美雪を貶めようとしたんだよ。美雪を売るつもりでね、雇った男達で無理矢理……」
すると静雄は、こめかみに血管を浮かべた。
自分でさえあの時の会話だけで吐き気がしたのだから、静雄の怒りは相当なものに違いない。
「……!! その女……今何処にいる?」
「さあ? 知らないよ。さっきは俺のマンションに来てたけど、さ」
「……その女とグルじゃねえだろうな」
まさか、と肩を竦めて見せた。
静雄は納得がいかなかった様子だったが、美雪を見て標識を離した。
「じゃあ、俺はもう行くから」
「……いいか、見逃すのは今日だけだからな」
声の調子は、まだ苛つきを含んでいる。
静雄の視線を背中に受けながら、新宿へ向かった。
♂♀
あの女は追い出したの、と波江が聞いてきた。
腕の中には美雪がいたが、連れて帰ってくると予想していたのか何も聞いてこなかった。
「当たり前じゃない。家の前にいられたら迷惑だし。それに、今は美雪に余計な心配掛けたくないから」
「……ホント、人間らしくなったわね」
眉間に皺を寄せる波江に、酷いなぁ、とだけ言う。
臨也は寝室のベッドに美雪を寝かせに行った。
彼女をベッドに寝かせ、光が差さないようにカーテンを引く。
顔に掛かっている髪を取り払い、頭を撫でてから寝室を後にした。
「私、帰った方がいいかしら?」
纏めた書類を臨也の机に置き、腕を組んで問うてきた。
「……どっちでもいいよ」
「そう言う割には、"帰れ"って顔に書いてあるけど。それに、あの子と二人になりたいから、私を追い出すつもりだったんじゃないかしら」
やはり、波江は鋭い。
特に何も答えずにいると、波江は帰り支度を始めてさっさと帰ってしまった。
ーー……美雪が目覚めるまで、残りの仕事片付けとくか。
しかし、波江がほとんどやったのか、仕事は早く終わらせることができた。
しばらくパソコンを弄っていると、寝室の扉が開いた。
美雪が起きたらしい。
臨也は立ち上がり、彼女の名前を呼んだ。
「あ……いざ、や……」
少しやつれている。
こんな短時間の間に、どれだけ疲労したのだろう。
「大丈夫? 倒れたって聞いたから」
「うん……ごめんね」
倒れた理由は聞かなかった。
美雪を追い詰めたくないからだ。
「何か飲む? 温かい方がいいよね」
「……ありがとう」
必死に笑う美雪の頭を撫でた。
とりあえず、紅茶を入れることにした。
疲れているだろうからと、砂糖を入れて甘めにしておく。
紅茶を淹れ終え、美雪の元に戻る。
彼女の隣に隙間などないようにくっついて座った。
カップを渡すと、息で冷ましながら口に運ぶ。
「……美味しい」
「そう。良かった」
それっきり、美雪は黙ってしまった。
彼女のことだから、ここまで運ばせてもらったのを申し訳なく思っているのだろう。
案の定、美雪はそのことに対して謝ってきた。
「ああ、いいよ。平気だし。それに、俺は一応君の彼氏だからね」
「…………へ?」
やはり実感がなかったか。
確かに、臨也は美雪に好きだと言った。
しかし、彼女から好きだとは聞いていない。
自惚れではあるが、彼女は自分のことを少しは気にかけているに違いない。
「あれ。やっぱり分かってなかったんだ」
「だっ! だって……」
「"だって"……なに?」
意地悪く口角を上げて笑えば、顔を赤くして目を逸らされてしまった。
「ごめんごめん。機嫌悪くさせちゃったらーー」
急に美雪が抱きついてきて、臨也は目を見開いた。
「美雪? ……どうかした?」
肩を震わせて、自分の胸板に顔を埋めている。
とりあえず肩に腕を回し、こちらに抱き寄せる。
身体は強ばったものの、抵抗しないと言うことは嫌ではないらしい。
背中を軽く叩いてやる。
彼女は、ただ臨也に抱き締められていた。
♂♀
「美雪に何かしやがったらぜってー殺す……あのクソ野郎……あーウゼェ……殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す……」
物騒な台詞を繰り返す静雄に、人間は怯えて近付こうとすらしない。
そこへ、躊躇いもなく静雄に近付く人影。
「よう。イラついてるみたいだが、何かあったのか?」
静雄に話し掛けてきたのは、門田だった。
仕事帰りなのか、いつも一緒にいるあの三人の姿は見当たらない。
彼なら、美雪の幼馴染みならば、話しても良いかもしれない。
「……門田か。丁度良かった。美雪のことで話しておきたいことがあんだ」
「……美雪?」
静雄のただならぬ雰囲気に、門田も顔付きが険しくなる。
自分が知っていることは、美雪が倒れたこと、臨也が彼女を迎えに行ったこと、『シュウコ』という女が彼女を貶めようとしたこと。
そして、美雪を売ろうとしていたこと、更に金で雇った男達で手籠めにしようとしたことだ。
美雪は今、新宿の臨也のマンションにいる。
池袋のどこに、シュウコがいるか分からないからだ。
「……話は大体理解できた。だが、何で美雪を? 恨みでもあったのか?」
「……そこら辺は、俺も良く知らねぇ。臨也の野郎からは聞きたくもねぇし
」
門田は少し考える仕草をし、口を開いた。
「俺の方もソイツらについて探ってみる。教えてくれてありがとな」
「あぁ」
門田が去った後、静雄はまた、あの物騒な台詞を言い始めたのだった。
♂♀
「あ、ドタチーン! こっちこっち!」
狩沢が自分に向かって大きく手を振り、居場所を知らせた。
「遅かったねぇ。何かあった?」
「いや、別にねぇ。……そうだ。お前ら、『シュウコ』っつー名前、聞いたことねぇか?」
「シュウコ? 誰それ? 何のアニメのキャラ?」
やはり狩沢は、そちらの方面で考えてしまうか。
「いやちげぇよ。……遊馬崎と渡草は?」
「うーん……聞き覚えないっすね」
「『シュウコ』っつー名前のモデルなら」
渡草が指差した先には、巨大な広告があった。
香水を片手に、妖艶な笑みを讃えている女。
下の方には、確かに『シュウコ』とあった。
「ドタチン、その『シュウコ』って人と知り合い?」
「ちげぇよ」
狩沢や遊馬崎に話して、派手にやられたら『シュウコ』に気付かれ兼ねない。
ーー……あの香水、美雪の会社のやつか?
自分の勘を信じ、確認するために臨也に電話を掛けた。
『……はい』
「臨也か? 門田だ」
『あれ、ドタチンが俺に電話してくるのって初めてじゃない? 何か用かな?』
「聞きたいことがあってな」
『う〜ん……まあいいか。ドタチンの質問は?』
「……『シュウコ』とかいう女についてだ」
『……やっぱりね。俺も会ったことは一回しかないけど。何が聞きたい?』
「その女の職業は、何だ?」
『職業? ……あぁ、雑誌のモデルやってるって聞いたよ』