羅刹篇

□始まり
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月明かりが差し込む今宵も


怨み歌が響き渡る




〜羅刹 第壱章『始まり』〜




卯の刻

此処江戸の町を一人の男が歩いていた。
長い黒髪を高く一つに結い上げ、帯刀に袴という姿容。その美しい姿貌を見れば、男が持てることは一目瞭然だが、何分その綺麗な顔貌はそれに見合う役目を果たしていない。
顔気色を変えることなく歩いていた男は、飛び込んできた言葉に思わず眉を顰めた。

「女子(おなご)が殺された」

「また羅刹(らせつ)が出たぞ」

口々に騒ぐ人々が見ているのは瓦版。昨日も瓦版は人殺しの事件を報知した。しかし人が殺されることは珍奇な事ではないし、人々が恐れていることは結果ではなく過程である。

優しかった者が突如人間や動物を殺める。そんな事が年が年百起こっているのだ。その度に人々は「羅刹が出た」と騒ぎ立つ。つまりこれが過程である。

男は渋面のまま川音のする方に足を運んだ。
橋に差し掛かった時、不意に背後から声を掛けられた。

「そこの長髪のお兄さん、ちょいと待っておくれよ」

生憎この場に長髪の人間は一人しかいない。
渋々振り返れば笠を被った男が一人。帯刀に着流しという姿容だが、長い額髪によって顔の道具は口と鼻しか見えない。

「わっちは勒七(ろくしち)。お前さんの名は?」

「…悠助(ゆうすけ)だ」

思わず逃げたくなった悠助だが、この男なら追いかけてくるだろうと妙な確信があった。

「お前さん羅刹をどう思う?」

そう尋ねてきた勒七に悠助は苛立った。気に障ったのだ。既に答を知っているかのような言い方が。

「必用な事か?」

嘲すように言うが、勒七は気にする気配がない。

「必要欠くべからざる事さ」

悠助は一瞬苦み切り、勒七を視界から外し本来進んでいた方へと歩き始めた。

「下らない」

悠助の言葉は橋から落ちて川に沈んだ。
勒七はその場から動かず、小さく笑って言葉の落ちた川を見詰めた。

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