海のお話

□赤い海辺
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8月の終わりには、肌をなぜるような柔らかな風が吹き始める日があった。それが今日だ。時計は18時をまわっている。空の縁は赤く染まり始めていた。
「着いたよアカリ、いいとこだろ」
項垂れたままの妻はぴくりとも動かず、瞳だけで頷いた。
タケルはトランクを開けて車椅子を下ろすと、開け放した助手席の前にそれを慣れた手付きで広げる。妻の様子はいつもこんな感じだが、それにしても今日は、反応がない。いつもなら、すぐにハンドルに手をかけるはずなのに。
どうかしたのかと声をかけようとすると、アカリはタケルを見上げて、右手を差し出してくる。タケルの顔は自然に綻んだ。
「ああ、よし」
タケルはアカリの脇下に潜り込んで、いつものように抱えあげた。動かない左手を右手でしっかりとつかまえさせ、その輪に頭を入れ込む。その瞬間はアカリも僅かに微笑んでくれるのだった。
「手が痺れたらちゃんと言えよ。じゃないと落ちちゃうぞ」
腕に力を込めて、無口な妻はもう一度瞳を揺らした。


タケルが会社の同僚に教えてもらった穴場は、誰一人観光客がいない絶景スポットだった。四国の小さな島だ。目の前には、広大な青い瀬戸内海が広がっている。
「そうか、浜がないから泳げないんだ。それで人が集まんないのかな」
黒々とした岩場をゆっくりと歩く。少し距離があったが、なんとか転ばずに海に出っぱった先端までたどり着いた。
「アカリ、ほら」
しっかりと身体を支えて、タケルは妻を座らせた。後ろからすっぽり抱き締める。また、小さくなった。こんな風に感じる瞬間が、あとどのくらい続くのだろう。腹の底が、痺れるように痛い。あと、どのくらい続けられるんだ。


アカリが脳出血で倒れたのは、一年前の今日だった。その後遺症で、半身が麻痺している。タケルはその日からもうほとんど、アカリの声を聞いていない。声は出るけれど、舌にも影響が及んでいて、ろれつが上手く回らないのだ。
「なあ、最近また目が悪くなった気がするんだ。どう思う。眼鏡替えた方がいいと思うか」
アカリは少しタケルを振り替えって瞬きした。
「なんだよ、老眼じゃないぞ。まだ僕は50前なんだから」
アカリが笑んだまま景色に戻る。タケルはその微細な表情の動きで、妻が何を言いたいのかなんとなく汲み取れるようになっていた。同じに白髪の混じった髪を撫でる。やはり吹いてくる風はひんやりとしていた。潮風というものなのか。アカリが肩を震わせている。
「寒いか。もう帰ろうか、アカリ…」
美しい景色と波の音の中で、アカリは静かに泣いていた。この見事に調和した大自然の前で自分を見つめると、誰だって心は震えるものだ。タケルは泣いている妻の頭を撫で続けた。良かった。やっと泣いてくれた。ここへ来て良かった。
「…」
風の中に、くぐもった声が混じった。アカリが何か言っているのだ。タケルは驚いた気持ちを押さえて口許に耳を寄せた。
「……」
「……なんだよ、それ」
赤く染まる海に向かって、アカリは堰を切ったように泣き始めた。タケルは震えを増す小さな身体がバランスを崩さないよう、必死で支えた。奥歯をしっかりと噛みこむ。アカリがいれば、なんでもいい。それはそうさ。僕の幸せの定義は、いつだって揺るがない。けれど、どうしても、恨まずにはいられないんだ。すまない神様。考えてもどうしてもわからない。

何故、彼女がこんな目に。


しばらくして、アカリの身体がやけに重心をこちらにかけてきた。
「どうした、アカリ」

妻の顔を覗きこんだ瞬間に、突然後方から突風が吹いた。アカリが一瞬声をあげる。なんとかバランスは保てたが、耳の側で何か巨大なものが弾けた音がしたかと思うと、タケルの身体の奥が急激に熱を持ち始めた。
「なんだ…おかしい…」
力が抜けていくのを、タケルは体感していた。まるで風船が萎むように、筋肉から張りが失われていく。
軸を失ったアカリの身体は、ゆっくりと前のめりになっていった。
「アカリ…!」
妻が下に消えるまでほんの数秒だった。飛び上がってくる着水の音と水滴に血の気が引いていく。心臓が違う生き物のようにタケルの身体を支配した。タケルは喉の奥で名前を呼びながら、力を振り絞り岩下を覗いた。暗い水面が、穏やかな波の間に揺れている。

タケルは岩先を掴んだ右手に力を込めて自ら滑り落ちた。沈んでいく赤い夕日が海に照りかえり目をうった。何かでぬめついた岩肌の感触が手のひらを滑って終わる。見えてくる底の方から、さっきのおぼつかない声が浮かんでは消えていくような気がした。


ごめんね、タケル。
私もう、生まれ変わりたい。


タケルの意識は、そこで途切れた。
 

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