海のお話

□●使者は白クマ●
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眩しい太陽の光が、肌の線をぼんやりと縁取っている。風はなく、秋の気配はしなかった。アカリは冬が怖いのだ。寒くなれば、動かない左側が痙攣を起こすことが多くなってしまう。そうしてタケルの睡眠を妨げることを思い返すだけで、胸に重たい霧が立ち込めた。

アカリは寄せてくる波をぼんやりと見ていた。いったり来たり。毎日きりがない。元に戻るよう努力するって、どういう意味なの先生。リハビリと食事療法を完璧にこなしても、心持ちなんてなんのバランスも取れない。

アカリはゆっくりと首を左右に振った。人のせいにするな。
動けなくたっていい。そんな自分が許せなくたって構わない。動けなくたって。生きていれば、理想はどこでだってきらめいている。
熱っぽい頭の中で、タケルが微笑んだ。どこまで前を向くつもりだよ。そんなんじゃ、毎日疲れちゃうだろ。白髪増えても、アカリが欲しいって言ってたヘアクリームは買ってやんないぞ。あれ、他のより200円も高いんだ。

口角は自然に上を向いた。タケルがいつでも、そばにいてくれたのに。これからもそばにいてくれるのに。今すぐに消えてしまいたいと弱音を吐いて、泣いてしまったのだ。
アカリはそんな身勝手な自分に絶望して、また涙をこぼした。


どれくらいの時間が過ぎたのだろう。どんなに目を閉じても、身体が熱くて眠れない。けれど何度も夢を見た気がした。タケルが笑って手をさしのべて、何か言っている。声が聞こえずもどかしかったが、その姿をなんとか焼き付けようと、アカリは必死で瞼の裏をまさぐった。きっと、最期なのだ。怖くないのが不思議だった。想像していたよりも死というのはなんだか切なくて、優しいものなのかもしれない。

「……?」
もう少しでタケルの手を掴めると期待したところで、おぼろ気なそのビジョンは暗く陰ってしまった。途端に身体の熱がまた襲ってくる。それと同時に、傍に生き物の気配を感じた。アカリは少しだけ瞼を持ち上げて、深く息を吐いた。

「…あ…」
見えたのは大きな白クマだった。クマは鼻を小さく鳴らしてアカリの匂いを嗅いでる。食べられるかもしれない。アカリは反射的にそう思ったが、すぐにその恐怖は断ち切れた。自分は死んだかどうにかなっているのだ。もし食べられても引き裂かれても、もう何も感じない気がする。
傍にタケルがいないのだ。私の身体には、もうなんの血も通っていない。


身体に力が入らないばかりか、目を開けているのさえ苦しかった。うっすらと、オレンジ色が滲んでいく。クマは服を着ているのだ。アカリは思わず笑みをこぼした。なんて、緊張感のない最期。迎えにきたのか、殺しにきたのか。どちらにせよ、私の天使か死神だ。

身体を襲ってくる苦しみに負けて、アカリは無理矢理に思考を止めた。目の裏にやって来るのはやはりタケルだ。小さな縫いぐるみを差し出してくる。あー三千円もかかっちゃったよ。これなら、普通に買ったのが良かったな。ほら、アカリ、お前クマ好きだろう。

「…ん…」

それは思い出せない程古い記憶だった。若い頃、ゲームセンターでタケルが取ってくれた。私はそれを受け取って、はしゃいでいる。
ありがとう、可愛い、これ。
お前はクマならなんでもいいんだろ。
名前も可愛いよね、ベポって名前。
そうかなあ。女の言うことはよくわからんよ。僕にしたら変な名前だ。


「……ベポ……」
アカリは穏やかな気持ちで目の前の白くまを撫でた。なんだか、不思議だ。あの時のぬいぐるみが、迎えに来てくれるなんて。タケルが私の為に用意してくれた使者ということになる。それがなんだか、たまらなく嬉しい。

「………」
クマは匂いを嗅ぐのをやめて、ピタリと静止した。黒い小さな瞳がじっとアカリを見つめている。
撫でていた手は程なくして、クマの身体を滑るようにずり落ちてしまった。
「………」
柔らかな感触が全身を包んだ。持ち上げられた身体が揺れている。白クマの腕に、アカリはしっかりと抱えられていた。

(クマが…私を抱えてる…歩いてる…)
また小さく笑うしかなかった。死の世界は、こんなにもユーモアに溢れている。タケルがいたら、なんて言うだろう。
アカリは笑んだまま、身を任せるようにオレンジ色の服に頬を寄せた。肌に触れる毛がくすぐったい。目の端に映るその白さが今に広がって、私は空を。飛ぶのだ。

(君は、天使なんでしょう)

アカリはそのまま、柔らかな腕の中で眠りに落ちていった。
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