信浜
□痕
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明くる朝、鳥たちが忙しなく高い鳴き声を響かせる。
長い間離れていた一人の雌と一匹の男が花火の日、ようやく再会を果たし江戸から遠く離れたこの里に来てから、約一年。
桜の花びら舞うこの季節。
布を水につけて洗う信乃の白い手に、小さな薄桃色の花びらがふわりと乗った。
そこで、ふと思う。
浜路の体調が良くなったら、久々に江戸の町にいってみようか。
そう思い、信乃は目元を和らげ、血の付いた布を洗った。
事の発端は今から数刻前。
二人はある壁にぶち当たっていた。
運の良い夫婦なら誰もが乗り越えなければならない壁。
もと若衆歌舞伎の看板役者とはいえ別に医学の知識があるわけではない。
あったとしても、ほんの一握りだ。
だからといって助産婦を呼ぶわけにはいかない。
生まれてくる子の体に痣が現れることは明らかなのだから。
二人が乗り越えなければならない壁。
それは出産だった。
陣痛が始まったのは、ちょうど二人が夕餉を召していた頃。
丸く膨らんだ腹を押さえながら苦しげに呻く浜路に、
何が起こったか理解できず目をぱちくりさせながら、やがて味噌汁を落っことした信乃に、
浜路は痛さに悶えながらも呆れるのだった。
あまりの激痛に涙を浮かべたが、それでも夫の汗ばんだ手をしっかりと握った。
出産の時間はかなりかかったが、朦朧とする意識の中激痛に耐え、そして夜が明けた時、家中に産声が響き渡ったのだった。
「…ッ」
瞼をうっすらと開ける。
鉛のように重たい体を起こし、下半身の痛みに顔を歪めながらも、きょろきょろと辺りを見渡し夫の姿を探す。
外からは、布を洗っているのだろうか、ゴシゴシと擦る音が耳に届く。
何となく申し訳ない気持ちになったが、今の自分には歩くことすらできまい。
はぁ、とため息をつきながら、もそもそと布団の中に潜り込んだ。
それから、隣にある存在にそっと目を向けた。
白い衣服に包まれた小さな体。
生まれたばかりの赤みがかった肌。
彼に似た真っ白な、赤子特有の柔い髪。
もみじよりも小さな手。
小さな、愛しい、我が子。
浜路は聖母のように微笑みながら、知らず知らずのうちに涙を零しながら、その白い頭をこれ以上ないほど優しく撫でた。
途端、カラリと戸を開けた自らの夫が、遠慮がちにこちらを覗く、子供のような仕草に、浜路は苦笑しながらもちょいちょいと手招きをした。
片方の腕には小さなややこが安心したようにすやすやと眠っている。
「……おぉ…!」
信乃はそれはそれは感激したようにキラキラと目を輝かせる。
抱いてもいいかと問われ、「そんなに目を開いたら目玉が落っこちちゃうよ」と冗談交じりに言いながらもその細くも逞しい腕の中に、ややを乗せた。