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□1:水を抱く
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寝る前に星を眺めるのが伊作の習慣である。私も一緒にベランダに出るが、星を眺めるためではない。
星を観ている伊作の横顔を眺めるためだ。
伊作は女の人みたいに綺麗な顔をしている。
何を考えているの、と伊作が聞いた。


「人生のこと」


嘘ぶいたのに伊作は真顔で頷く。
伊作がいれてくれたコーヒーを飲みながら夜風に当たる。
でもすぐに寒くなってしまうから暖房のきいた室内へと向かった。

そのまま寝室へ行き、温めてあったアイロンをベッドのシーツの隅々に滑らせる。


「どうぞー!!」


出来上がったベッドに毛布で素早くふたをした。
うん。温かい。丁度いい温度。


「ありがとう」


伊作はいつもの笑顔でそう言うと、温かいベッドに潜り込んだ。


私達は十日前に結婚した。
しかし、私達の結婚について説明するのは、恐ろしくやっかいである。




「おはよう」


目を覚ますと、伊作はもう台所にいた。


「おはよう。目玉焼き、食べる?」
「食べる」


頷くと綺麗なお月様のような形の目玉焼きが食卓に並ぶ。
私がそれを食べているあいだに伊作は淹れたての紅茶を用意してくれる。

伊作は医者で、毎朝9時にきっかり車で出掛ける。
勤務医なので、夜勤の日を別とれば週休二日のサラリーマンと同じ生活サイクルである。


夫を送り出したすぐ後に電話がなった。

「もしもし、お母さん?」
「あぁ望美、かわりない?」


母は毎日のように電話をかけてよこす。
あんまり心配そうな声をだすので私は少しイライラし、ぶっきらぼうな態度になる。


「どうしたの、機嫌悪いわね」
「何でもない。気にしないで」


私は受話器を持ったままソファーに腰掛ける。

伊作が医者だとわかったとき、母はとても喜んだ。
ステイタスとか収入とか、そういう観点からではない。

『お医者様なら安心ね』

伊作の写真をしげしげとみて、母は満足げにそう言った。
母の電話はこれだから嫌だ。憂鬱なことばかり思いだす。
伊作は極度の潔癖症である。その事もあって女性を抱くのが好きじゃない。だから、キスもしてくれない。
つまり、そういうことなのだ。
過度な潔癖症の夫と鬱病の妻。
まったく、脛に傷を持つ者同士、だ。


仕事から帰った伊作が何の話がいい、と私に尋ねた。
留三郎と観た映画の話?留三郎と海に行った話?

「そうね、食満くんと山に行った話」
「行ったことないよ」
「じゃあ、食満くんが潮江くんとケンカした話」
「それ、こないだしたじゃない」

苦笑する伊作に私はもう一回、と言った。
伊作と食満くんは中学時代からの同級生で幼馴染みである。
小さい頃から伊作は頼りなく、いつも食満くんが彼の面倒をみていたと聞いた覚えがある。
だから伊作は食満くんに依存している。それは私と結婚した現在でも同様。異常なほどに。
だから伊作は仕事から帰ってくると決まって何時も食満くんの話をする。
そして私は黙って彼の話を聞く。

留三郎が、留三郎は、
私は一日に何回食満くんの名前を聞いているのだろうか。数えた試しもないが。

伊作はワインを少し喉に流し込み、懐かしそうに目を閉じる。
おなじ話でもちっとも省かない伊作の嬉しそうな顔を見つめて、聞こえぬようただ静かに溜息をついた。



よく晴れた日、散歩をして戻ってくると、ドアの前に食満くんが立っていた。
私の顔を見ると、片手を挙げてにっこりと笑う。


「よかった。誰もいないから帰ろうと思っていたところなんだ」


どこから見ても人の良いハンサム好青年。
その屈託ない笑顔がとても眩しい。
ごめん、散歩にでていたから、とか伊作はまだ病院なの、とか言いながら、私は部屋の鍵を開けた。


「いや、すぐ帰る。様子を見に来ただけだからな」


そう言われて、私は思い切り緊張した。様子って何の様子だろう。
私の両親も伊作の両親も大賛成してくれたこの結婚に、ただ一人反対していたのが彼だった。


「いい部屋だな」


部屋を見渡しそう言った。
ありがとう。とこたえたあとに少し可愛げのない返事をした自分に後悔した。


「とうとう結婚してしまったな」


食満くんはいきなり本題に入った。


「俺はお前たちが心配だ」
「そんな。周りは祝福してくれてるわ」
「それは知らないからだろう」


伊作が女を抱けないってことを?
それはそうね。と言いかけてやめた。
私は情緒不安定なのでおあいこよ、とは言えない。


「あいつと結婚するなんて、水を抱くようなものだろう」


対して私は大きな声ではっきりと言った。


「いいの。私、セックスがそんなに好きじゃないから」


食満くんは一瞬ぎょっとした顔になったが、それから少し笑った。

伊作は否定するけど、私思うのよ。
伊作は女を抱けないって言うけど、男ならどうなの。食満くんは抱けるの。
食満くんなら抱けるんでしょう?
貴方、同性愛者なんでしょう?
貴方は否定するけど、私どうしてもそう感じてしまう。



食満くんが帰ったすぐ後に伊作は帰宅した。
帰ってきたばっかりだというのに伊作は床にワックスをかけている。
手伝おうとしたら、僕がやるからいいよ、と言った。
掃除は伊作の趣味なのだ。


「望美は昼寝でもしておいで」


何度も言うが、伊作は潔癖症だ。
自分で何もかもピカピカにしないと気が済まない。
伊作の楽しみを取り上げることも出来ないので、私は白ワインの壜を持って、絵の前に腰をおろす。


「飲もう。伊作なんてほっといて」


「望美」


溜息をつくみたいに伊作が言う。


「そんなとこに座っちゃ駄目だよ、ワックスかけてるんだから」
「ガミガミ伊作」


仕方がないのでソファーの上に避難して、絵の中のおじさんに歌をうたってあげることにした。
ワインを飲みながら歌っていたら、伊作がきて壜を取り上げた。


「壜ごと飲んだりしちゃ駄目だよ」


私はとても不幸な気持ちになった。


「返して」


伊作はさっさと台所に行き、ワインを冷蔵庫に入れてしまった。
私は抗議の気持ちを込めて、歌声を強くはりあげる。
喉が痛い。耳が痛い。
けれど伊作はちっとも動じない。


「子供のような真似はよしなさい」


すぐ後ろで誰かが笑ったような気がして、振り向くと食満くんの写真だった。
私はかっときて、そばにあったものを写真に投げつけた。


「望美っ!!!」


伊作が慌てて私を押さえつける。
私は途方もなく悲しくなって、声を上げて泣いた。
泣いてる自分が不甲斐なく、どうしようもなくて、泣き止もうとすると呼吸困難になった。
伊作が私をベッドに運び、少し眠ったら、なんて悠長なことを言うので余計悔しくて、私はいつまでもしゃくりをあげていた。



結局そのまま泣き寝入りをしてしまい、目をさましたときには夕方だった。

「お風呂、入ったら」

伊作が言った。


「今日は外食にしようか」


どうしていつもこうなのだろう。伊作は優しい。
そして、それは時々とても苦しい。


「さて、何を食べに行く?」
「あのね、伊作」


私、貴方に天体望遠鏡を買ったんだけど、配達に日数がいるみたいで。
ーーあまりにもスラスラと嘘がでてくるので、私は自分で驚いてしまう。


「すごい!」


伊作は目を輝かせた。
私の夫は、物事をかけらも疑わないたちなのだ。

今夜、一体何組の恋人たちが一緒に食事をするのだろう。
ピカピカに磨かれた窓に部屋の電気がうつっている。

私も伊作も、みんなうすっぺらいガラスの中にいた。




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