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□2:青鬼
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めずらしく望美が長電話をしている。
もっとも望美は相槌を打つばかりの聞き役で長電話は彼女の本意ではない。
望美は電話が嫌いなのだ。


「ユキちゃん、お姑さんと揉めて大変みたい」
「へぇ」


ユキというのは望美の学生時代の後輩で、望美いわく、気の許せる友人、である。


「世間のお姑さんって、無理ばっかり言うものみたい」


うちのお姑さんは凄く優しいのにね、と言った望美の声が素直だったので、僕は少し気が止めた。
一生独身を決め込んでいた潔癖症の息子が、やっと好きになった女性なのだ。
セックスなしでも構いません、と言って僕の妻になった女に、母さんが優しいのは妥当である。
逃げられでもしたら一大事だと思っているのだ。


「伊作、私の話聞いてるの」
「ごめん。ユキちゃんの話だったね」
「そうよ。それでね、明日ユキちゃんのうちに遊びに行くことになったの。遅くなるかもしれないけど、かまわない?」


もちろん構わないよ、と僕はこたえた。


「迎えに行こうか」


望美は首をふり、僕の顔をじっと見つめる。


「それより、たまには食満くんと会ったほうがよくない?」


とても大事なことを言うような重々しい口調だった。


「きっと寂しがっているわ」


僕は返答に戸惑った。
まただ。望美は一つ大きな勘違いをしている。
確かに僕と留三郎は幼馴染みでお互いを大事に思っている。
けれど、だからといって僕と留三郎は望美が思っているような関係ではない。
普通の友人だ。
いくら僕が女の人を抱けないからといって、男に走るほど気を違えた覚えはない。
何回か否定したが一向に信じようとしないので、もう否定することもなくなったが、それを望美は肯定と受け取ったようだ。


「いや、あいつは寂しがるようなたまじゃないよ」

だから気にしないで、と僕は言った。

「そう」


望美は納得して微笑むと、手元のコーヒーを飲み干した。



次の日、病院に母さんが面会にきた。
僕はちょうど朝の回診を終えたところだった。


「調子はどうなの」
「母さん。どうしたの、こんなところに。マンションの方へ来てくれればよかったのに」


本当はわかっていた。
母さんは僕に話があるのだ。
僕達ではなく、僕だけに。


「伊作、赤ちゃんのことだけど」
「赤ちゃん?」


どう思っているの、と母は詰問した。
望美さんと話し合っているの。


「先月、結婚したばかりだよ」
「伊作、三反田さんは産婦人科でしょう?」


三反田。三反田数馬というのは僕の大学時代の後輩で、同じ病院に務めている。


「相談してみたらどう?人工授精のこと」


人工授精。
どうせそんなことだろうと思った。


「悪いけど望美とは何の相談もしてないよ」
「それも変ねぇ」


健康な女性なら当然考えることなのに。
母は不服そうにそう言った。


「そのうち、話し合ってみるよ」


僕は適当に母をあしらって、出口まで見送った。
最後に母は、伊作、貴方は一人息子なんですからね。と言った。

母を見送った後に公衆電話から留三郎に電話をかける。
望美に言われたからではないが今夜はなんとなく無性に会いたくなった。


家に帰ると、望美は一人で歌を歌っていた。
僕の妻は少し変わっている。


「ただいま」


振り向いて、おかえりなさい、と言う時の彼女の顔が、僕は心の底から好きだ。


「ユキちゃん、どうだった」
「思ったより元気そうだった」
「それはよかった」
「土曜日に、豆まきに来ないって誘ったら、御主人と息子と、みんなで来るって」
「豆?」


節分でしょ、と望美は笑って言った。


「節分か」


伊作は鬼の役よ。有無を言わせない口調で望美が言った。

僕達はそのままベランダへと出て、僕は天体観測を望美はワインを片手に鼻歌を歌った。
望遠鏡を通して観る夜空はきちんとトリミングされている。
丸く切り取られた宇宙に、無数の星が煌いているのだ。


「見てみる?」


僕が尋ねると、望美は首をふった。


「他所の星なんて一生行かれないもの。興味ない」


ベッドにアイロンをかけてくるわ、と言って、望美は部屋に入ってしまった。
僕は、シーツにアイロンをかけているときの望美の、鬼気せまる背中を見るのが好きだ。


「望美」


なに?彼女はにっこりとし、心持ち首をかしげる。


「結婚するときに決めたことだけど」


なに?と望美はもう一度訊く。


「いろんなこと決めたじゃない」
「恋人のこと」
「食満くんのこと?」


いや、君の、と言うと彼女の顔色がたちまち曇った。


「利吉さんのことを言ってるんだったら、私たちとっくに別れたのよ、そう言ったでしょう」


僕は女性を抱くことができない。
ということは僕の妻になった望美はそういう行為をしてあげることはできないし、子供をもつこともできない。
だから、僕達は結婚前に決めたのだ。
望美に恋人をもつことの自由を与えた。


「伊作だけで充分よ」


茶化すようにそう言ってアイロンのコンセントをぬき、望美は振り向いて、どうぞ、と言う。
どうぞ、ベッドの用意ができました。


しばらく目をつぶっていても眠れなかった。
目をあけると望美のベッドは空のままで、時計は一時を過ぎている。


「まだ起きてるの」


リビングのドアを開けると、居間の空気が殺気立っていて、望美が鬱状態なのがわかった。
望美はクッションの上にぺたんと座り、テーブルにかがみこんで黙々と紙に色を塗っていた。


「何してるの」


できるだけさりげない口調で話しかけながら、傍にあったワインの量を確認する。
もう、ほとんど空だ。

望美がつくっているのは鬼のお面で、画用紙にかかれた青鬼は紫色の角をはやし、真っ赤な口をしている。


「力作だね」


望美はこたえない。
次の動作は二つに一つだ。
物を投げるか、泣き出すか。
クレヨンを動かす手がとまり、望美は声をたてずに涙を流し始めた。
大きな雫が次々にあふれ、ぽたぽたとおちる。
時々苦しそうに嗚咽をしている。


「望美」


望美は両手で顔を覆い、今度は子供のように声をあげて泣いた。
途切れ途切れに文句を言っているのだけれど、さっぱり聞き取れない。


「聞こえないよ、望美、落ち着いて言ってごらん」


望美は随分ながいこと泣いていた。
伊作が、とか、恋人が、とかしゃくりをあげながら訴えるのだけれど、結局何を言ってるのか分からなかった。

引きずるように寝室にもどり、望美をベッドの中に押し込む。


「おやすみ」


望美は涙のぬれた目で、なお訴えるように僕を見ていた。
真っ赤に泣き晴らした目が痛々しい。


「恋人の話はもうしないよ」


ぽってりと熱をもった望美の瞼に指先で触れ、僕は酷くせつない気持ちになりながら言った。



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