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□3:キリン座
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昔の恋人の夢をみた。
その人は相変わらず眉間に皺をよせ、憂いをおびた顔をしていた。


「望美」

「私はやっぱり望美なしでは生きていけない」


彼は眉間の皺をますます険しくし、


「あんなに酷いことを言って悪かった」


と呟くと、辛そうに唇をかんだ。


「望美。ほら、君の好きなお菓子屋のマカロンだよ」
「何味?」


昔の恋人はにっこりと笑う。


「勿論、君の好きなチョコレート味さ」


チョコレート!私はすっかり嬉しくなった。



目が覚めるとお日様は既に顔を出しており、伊作はもう出かけたあとだった。
誰もいない部屋を見て私は不安になる。
もう二度と伊作は帰ってこないのだ、という気がした。
それとも、はじめから伊作なんて存在なかったのかもしれない。

私は、どうしても直ぐに伊作の声を聞きたくなった。
だいたい、今頃になって利吉さんの夢を見るなんて、伊作のせいなのだ。
伊作があんなことを言ったから。
不安は喉元に突き上げてきて、私はほとんど泣きだしそうだった。



「はい」
「内科の善法寺伊作をお願いします」
「お名前は」
「善法寺望美です」


そう応えると、看護婦は一瞬あからさまな視線を私の全身に投げかけ、
それから不気味なほどにっこりと笑って、少々お待ち下さい、と言った。

私はうんざりし、ソファに腰をおろし、薄暗いロビーを見つめた。
ここが伊作の仕事場。


「望美」


伊作はいきなり目の前に現れた。
懐かしい伊作。


「どうしたの。はじめてだね、病院に来るなんて」


私は立ち上がり、利吉さんの夢をみたことや、伊作に会いたかったこと、
受付の看護婦の感じが悪かったこと、なんかを、一体どうきりだしていいのかわからなかった。


「望美?」
「もう帰りたい」


やっとでてきた言葉に、伊作は事情が飲み込めない風だった。


「帰るって言ったら帰るわ」
「それゃあ、止めやしないけどね」


伊作は困惑しきったように言った。


「あれ、もしかして奥さんですか?」


線の細い声がして、振り向くと可愛らしいまだ若い青年が立っていた。
白い白衣がよく似合っている。


「婦人科の三反田数馬。ほら、いつか話しただろう。大学時代からの仲間だって」


そんな話は全然覚えていなかったけれど、私はとりあえずにこやかに挨拶をした。


「三反田さん」
「はい?」


この人はやたらにこやかな人だ。


「ちかいうちに、お遊びにいらして下さいね」


私はすっかり妻っぽい気持ちになって言い、横で伊作は、やれやれ、という顔をしていた。

自動ドアの外はうらうらと日差しが暖かい。


「じゃあ、気を付けて帰るんだよ、二番目のバスに乗って、駅前で降りるんだ」


わかっているわ、と応えて私は石段を降りた。


「用事があったんじゃないの」


伊作が後ろから言い、私は、なんでもない、という風に手を振った。



お風呂のあと、冷蔵庫からトマトジュースの缶をだして飲む。


「お客様、いつにする」


フランスパンを切りながら訊くと、伊作はシチューをかき混ぜなながら、「当分先でいいよ」と言った。


「どうして」
「どうしてって別に」
「三反田さんのこと嫌いなの」
「そんなことないよ。アイツ良い奴だし」
「ふぅん」


それじゃあ、と私は考えた。
それじゃあお客様を呼びたくない理由は一つしかない。
伊作は、私を友達にみせたくないのだ。

私はグラスに氷をいれて、ウォッカをどぼどぼついだ。
伊作の本棚から詩集を一冊ぬきとって、ぱらぱらと読む。少しも面白くない。


「食満くんの話をして」


台所に向かって怒鳴ると、少し間をあいて、どんな話、と返ってきた。


「食満くんとセックスするときの話」


伊作はこたえない。


「食満くんとセックスするときの話をして」
「望美、何回も言うけど、僕と留三郎はそんな関係じゃ「食満くんとセックスするときの話をして」
「・・・・機嫌が悪いんだね」


私が文句を言うより早く、伊作はシチューを煮込みに台所へ行ってしまった。
食事はあっという間に終わった。
二人とも殆ど喋らなかったからだ。


「あれ」


リビングでコーヒーを飲んでいた伊作が、不意に立ち上がって本棚の本を一冊いれかえる。


「どうしたの」
「なんでもないよ」
「・・・どうして何でもないなんて言うの」


優しく微笑んだ伊作に対して、私はイライラして言った。


「さっき私が読んだ本でしょう。触るなとか、勝手に出すなとか、ちゃんと言ったらいいじゃない」


つっかかるね、と伊作は言った。


「そんなの勝手に読んでいいにきまってるじゃないか」
ただ、本類には分類があってね、教えてあげるよ、簡単だから望美もすぐ覚える。


「いいわ、一冊抜き出したら、その場所にしるしをつけておく」


いい考えだね、と伊作が言い、皮肉の通じない伊作に、私はかっとしてしまう。


「本の分類もできない妻じゃ、お客様なんてよべないわよね」
「望美」


伊作のまっすぐな眼差しは、いつも私を悲しくさせる。
あの善良な目でみつめられると、私はどうしたって目をそらしてしまうのだ。


「数馬はね」
「数馬は女性恐怖症なんだ」

「え?」


私が驚いた声をだすと、伊作は苦笑した。


「数馬の家が産婦人科で、子供のころから女性の身体に畏怖心があってね、
その畏怖心と自分に対する極端のコンプレックスとかがこういう結果に繋がったんだ」
「うーん」


そういうものか、と私は思った。
私は世の中というのはまったく理解できない、と思った。
都会の空にこそ星が必要で、伊作のような人こそ女が必要なのに。
私みたいな女じゃなくて、もっと優しくてちゃんとした女が。


「今朝、利吉さんの夢をみたの」

「どんな夢?」
「すごく、都合のいい夢」


伊作は笑った。


「でも私のせいじゃないわ」
伊作が悪いのよ。私の恋人がどうの、なんて言ったから。


「・・・望美には恋人が必要だよ」


必要じゃないわ、と即答すると、伊作は悲しそうな顔をした。


「僕は何もしてあげられないんだよ」
「・・・・」


やっぱり、三反田さんを呼びましょう、と私は言った。


「三反田さんの友達も、それから食満くんも、皆でにぎやかにやればいいじゃない」


伊作は黙ったままだった。


「それからね」

「今度マカロン買ってきて、チョコレート味のやつ」


明日、買ってくるよ、と言って、伊作は清潔に微笑んだ。



気を利かせて先に部屋にひっこみ、私は伊作のベッドにアイロンをかけた。

こういう結婚があってもいいはずだ、と思った。
なんにも求めない、なんにも望まない。
なんにも無くさない、なんにも怖くない。
唐突に、水を抱くという食満くんの言葉を思い出した。


「どうぞーっ」


ベッドに毛布を被せてアイロンのコードをぬく。
目を瞑って小さく息を吸うと、闇の中に星空が広がった。




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