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□5:ドロップス
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あれ以来、伊作の友人たちはときどき遊びにくる。
みんな望美が気に入っているんだ、と伊作は言った。
私もみんなが好きなので、それはとても嬉しい。
伊作は相変わらず優しく、私たちは一度もケンカをしたことがない。
こういうのを順風満帆というのだと思う。
それなのに、私はひどくイライラしていた。
原因は自分でもわからない。

伊作に対してとても残酷な気持ちになるのだ。
とがった皮肉や意地の悪い冗談で、一日に何度も、伊作を傷つけてしまう。
5月になってからその傾向はますます強く、晴れて、風が匂うような美しい日はとりわけ、私は残酷になった。

仕事が忙しいの、と今朝伊作は訊いた。
どうして、と言ったら首をちょっと傾げて「いや、疲れてるみたいだから」とこたえる。
靴をはいて鍵をポケットに入れ、伊作はドアをあけた。


「今夜は夜勤だから、戸締りに気をつけるんだよ。それからガスもね。仕事、根をつめすぎちゃ駄目だよ」
「伊作」


久しぶりに伊作が夜勤で嬉しいわ、と私が言った。
伊作は困ったように苦笑して、それからパタンとドアを閉めた。

たしかに、夜勤の日が私は嫌いではない。
一人はほっとするのだ。
伊作のことは大好きだし、だから結婚したわけだけど、四六時中一緒にいたいなんて思うほど、私は愛情というものを信頼していない。
でも、だからといって、そんなことを伊作に言う気はなかったのだし、言ってしまった瞬間に、泣きたいほど憂鬱になった。
私はどうかしてる。



お風呂でお酒を飲むのは久しぶりだった。
伊作に禁じられているのだ。
お風呂でお酒を飲むと、お酒は全部、顔と頭に駆け上っていくのだ。
血液の流れがぐんぐんよくなるきがして、とても気分がいい。

それはとても心臓に悪いよ、と伊作は私に言った。
約束してくれるね、もうしないって。絶対にしないって。
頷いたけれど、それだけのことだ。
嘘をつくことなんて、私は何とも思っていない。
結婚してから四ヶ月も、その約束を守っていたことの方が不思議なくらいなのだ。

お風呂から出ると、私は冷たいビールを一息で飲み干した。
目の奥で、さっきのお酒と今のビールが合流し、たぷんたぷん波打って目眩がする。

電話は鳴らなかった。



いつものように、伊作はドーナツをどっさり買って帰ってきた。


「新しいドーナツがあってね、何だと思う」
「さぁ」
「プレーンレーズン」


あけてごらん、と言って伊作はテーブルの上の箱を顎で示した。
望美、前に言ってただろ、レーズン入りのドーナツってどうしていつもシナモン味なのかしらって。
レーズンは好きだけどシナモンは嫌いなのよって。
これはプレーンだからきっと気に入るよ。


「伊作」


たまらなくなって私は遮った。
この人はどうしてこんなに善良なんだろう。
心の中で、黙って、と頼んだのだけれど、伊作には聞こえなかったらしい。


「確かめたんだ、店員に。そしたら親切な店員でね、試食をーー」
「もういいわ」


帰る早々ドーナツの話ばっかり。胸焼けしちゃうわ。


「望美?」


何を怒ってるの、と伊作は訊いた。
どんなことにも原因と結果がある、と伊作は信じている。


「怒ってなんかないわ。ただ、お腹がすいてないの。ドーナツなんて食べたくないのよ。
伊作は夜勤あけで疲れてるんだし、わざわざ帰ってこなくてよかったんだわ」


私は一方的にまくしたて、昼寝をすると言ってベッドに戻った。
そして、シーツの間にうずくまって泣いた。
自分で自分がコントロールできないのだ。
声を殺して泣いたので、喉と目と鼻がじんじん痛く、熱く、嗚咽のたびに苦しくて、ぐしゃぐしゃになった。
しばらくするとドアが細くあき、行ってくるよ、という伊作の声がした。




泣いていたんじゃわからないです、と電話のむこうでユキちゃんは言った。
どうしたんです、伊作先輩はそこにいるんですか。


「・・・・いない」


しゃくりをあげながらこたえる。
伊作は、ひっく、病院。昨日は、夜勤、ひいいっく、だったの。うええっく、うっく、ううっ。


「どうしてそんなに泣くんですか」
「伊作は昨日夜勤で・・・」


私はまたしゃくりをあげた。


「それはわかりましたよ。それでどうしたんです?」
「・・・・それだけよ」
「望美先輩?」


私は電話口で号泣した。
どうして泣いてるのかわからなかった。


「お風呂場でお酒を飲んだわ。伊作は電話をくれなかった。夜勤のときはいつもくれたのに。
ドーナツは買ってくれたけど、でも私は意地悪を言ったわ。言いたくて言ったわけじゃないけど、でも、」


落ち着いてください、とユキちゃんは言った。


「のろけてるんですか?」
「ちがーーー」
「違わないです」


いつも電話をくれてドーナツを買ってくれるのに、昨日は電話もドーナツもなしだったって、怒っているんでしょう?


「違うってば。ドーナツは買ってくれたし」


そんなことはどうでもいいです、と言ってユキちゃんは溜息をついた。


「子供つくったらどうですか?」
「何よ、それ」
「子供つくれば落ち着きますよ。私も主人の出張が淋しかったけど、子供が生まれてから全然平気ですもん」
「そういうことじゃないの」
「そういうことですよ」


ユキちゃんは断言した。


「いつまでも情緒不安定じゃおばさんたちが安心できないですし、伊作先輩だって可哀想ですよ」
「だってーー」
「何のために結婚したんですか」
「・・・・」


子供を産むためじゃないわ。
私はかろうじて反論した。


「それはそうですけど」


ユキちゃんが何かいいかけたけど、私はそのまま受話器を置いた。
ユキちゃんにはわからないのだ。ユキちゃんにはわからない。
私は途方に暮れてしまった。

いつまで情緒不安定じゃおばさんたちが安心できないし、伊作先輩だって可哀想ですよ。
何のために結婚したんですか。





精神科医なんて、と私は思った。
久しぶりに結婚前にかかりつけだった精神科のお医者様に会いにいったが、

精神安定剤も食欲増進剤も必要ない。
無罪放免だ。あとはまあ、はやいとこ赤ん坊でもこしらえることです。

と言い放った。
精神科医なんて、所詮あんなものなのだ。
あの医者が悪いわけではない。誰にもどうしようもないということなのだ。

ふと、私はいいことを思いついた。
いい人を、というべきかもしれない。
鶴町伏木蔵。鶴町さんは脳外科医だ。
精神などとという抽象的なものではなく、脳という具体的なものを治療する医者なのだ。



その病院は大きく、案内された部屋は狭く、白いアコーディオンカーテンがその窮屈さを強調するように部屋を区切っている。


「それじゃ病院のはしごをしちゃったわけですね」


と言って鶴町さんは微笑んだ。
ええ。頷いて、カラスの飛んでいる空をぼんやりみていると、ほんとうは、と鶴町さんが言った。


「本当は、僕は鶏肉が嫌いなんですよ」


私はきょとんとして鶴町さんの青白い顔をみつめた。
線の細い、端正な顔。


「はじめてお宅に伺ったとき、フライドチキンがあったでしょう。どうしてあれを食べられたのか、僕は本気で不思議なんです」
「・・・・・はぁ」


この人、私の話をきいていたのかなぁ、と私は思った。


「初対面の女の人の前で、あんな風に心やすい気持ちになったのも不思議です」


心やすい気持ち。


「これ、心理治療なんですか」
「これってどれです」
「よくあるでしょう。一見脈絡のない会話にみえて、実は相手の深層心理をーー」


鶴町さんは愉快そうな目をして微笑んだ。


「あいにく」
あいにくそれは脳外科医の守備範囲外ですよ。心理療法してあげられませんけれど、と言って鶴町さんはひきだしをあけ、

「薬をさしあげましょう」

と言って黒い缶をとりだした。
ドロップ缶だった。


「どうぞ」


さしだされた手のひらにはドロップが五つのっかっていた。
赤や緑やオレンジの、粉っぽい色をしたまるいドロップだ。
私は黙ってドロップを受け取った。



うちに帰るとユキちゃんが来ていた。


「どこに行ってたんです」


心配したんですよ、と彼女は言った。
伊作はもう帰っていて、クラッカーに
バターをぬっている。


「説明してください」


ユキちゃんは怒っていた。
ソファにはその子供が寝ている。


「病院に行ってきたの。おいしい薬をもらったからわけてあげるわ」
「なんなんですか」


ユキちゃんはとんきょうな声をだした。


「薬なんかいらないです。あの電話何だったですか。人をさんざん心配させて」
「ごめん」


私が謝ると、伊作もそばから片手でおがむ格好をして、いつも申し訳ない、と言った。


「ちょっと待ってください。どうして伊作先輩がそっちにつくんですか」


そっちにつく、という子供の喧嘩みたいな表現がおかしくて、私は思わず笑ってしまった。


「笑いごとじゃないですよ」
「ごめん」
「私が一人でばかみちゃったってことですか?冗談じゃないわ。伊作先輩も少しくらい怒ったらどうです?」


伊作はオイルサーディンの缶をあけながら笑って、慣れてるから、と言う。
ユキちゃんはさんざん文句を言って、バタークラッカーにオイルサーディンをのせてバリバリ食べ、ピーチフィズを三缶飲んで帰って行った。
ドアを閉める瞬間まで、怒ったりバカバカしがったりしながらーー。


コーヒーがわくのを待ちながら、鶴町さんのところに行ったことを報告した。
伊作は意外そうな顔をする。


「伏木蔵のところ?」


私は、伊作がそんな顔をしたことが少し意外だった。


「そうよ。脳外科医ならいいかと思ったの」
「全然ちがうよ」


つっけんどんな口調だったので、私はとても驚いた。


「怒ったの?」


伊作はすぐにいつもの声になり、そうじゃないよ、と言う。


「それで、どんな診断だった?」
「守備範囲外だって」


伊作はおもむろに咳払いをし、僕も医者なんだけどね、と言った。


「だめなの」


私はうつむいた。
伊作じゃだめなのだ。なんにもならない。
私はどんどん伊作に頼ってしまう。
私が黙っていると、患者の人気、けっこうあるんだけどなぁ、と言って笑う。
その、伊作らしくもなく月並みな冗談が、あまりにもとってつけたような感じだったので、私は胸がしわしわになった。


「善良ならいいってものじゃないのよ」


自分の言葉の刺に驚いて、私は急いでドーナツを頬張った。


「主治医失格か」


コーヒーをつきながら伊作は言った。
私はひたすらドーナツを口におしこむ。
薄めのコーヒーは熱く、レーズンはやわらかに甘い。


油とお砂糖の味がして、私はまた泣きたくなった。



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