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□6:昼の月
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ここのところ、望美がずっと鬱だ。
険しい表情で押し黙ったまま、一点を見つめて動かない。
妙な挑戦的な言葉を投げつけるかと思うと、ささいなことで目に涙を溜め、切なそうに僕をじっとみる。
誰にでも、精神の波というかリズムというか、そういう起伏はあるのだし、望美はそれが少し大きいだけなのだ、と僕は思う。
変に心配して騒ぎたてないほうがいい、と思っていたし、自然体の望美を好きでもあった。
しかし、だからといってこんなにほうっておいてよかったのだろうか、と思う。
以前かかっていた医者に行ったり、伏木蔵まで訪ねたりして、何とか事態を好転させようとする望美の気持ちが僕にはひどく痛々しかった。
彼女はいつも一人で戦っている。
何を考えているんだ、と留三郎が言った。
「当ててやろうか」
床で体を丸めて、足の爪を切りながら留三郎は言う。
「おふくろさんのこと」
晩めしのとき言ってただろ。病院に今日、おふくろさんが来たって。
「はずれ。余計なこと思い出させるなよ」
望美のことを考えていたんだ、と僕は言った。
「どんどん不安定になっていく」
「それゃ、夫がいつまで経っても愛を態度で示さないんだ。不安にもなるだろ」
挙句に同性愛者で俺がお前の恋人だと思い込んでる。
今だって望美にとっちゃ、お前は俺と浮気してるとでも思われてるかもしんないんだぜ?
不安にならないほうがおかしいに決まってる。
真面目な顔をして留三郎が言った。
そうだね。僕はこたえ、 冷蔵庫からエアビン水を出して飲む。
望美は今日、実家に帰っている。
久しぶりに食満くんのところに泊まったら、と言い出したのは望美だった。
私はうちに泊まるから。歓迎してもらえるのよ。一人娘の特権。
「今度は何を考えているんだ」
何も、とこたえたけれど、留三郎は疑わしそうにニヤッと笑い、そうかな、と言った。
「伊作、望美を抱いてみたらどうだ」
さりげない風だったけれど、声にずいぶん本気が込められていた。
僕は動揺し、それからなんだか腹が立った。
「そういうことを軽々しく言うなよ」
だって、可哀想だろ、と留三郎は言った。
「やってみたこと、ないんだろ」
いい加減にしろ、と僕は言い、エアビン水をグイグイ飲んだが、驚くほど味気なかった。
留三郎の部屋を出たのは四時だった。
この時間なら、道路がすいてるし、五時前にはうちに着くので、ゆっくり風呂に入り、朝食もきちんととって、正しい形で一日を、始められる。
ドアをあけ、靴を脱いで中に入ると、リビングに入ってすぐ左に、望美がぺたんと座っていた。
「うわっ」
とびのかんばかりに驚いて叫んだが、望美は表情を変えなかった。
泣き晴らした顔だ。電気一つつけていない。
「ただいま」
おかえりなさい、と望美は言った。
無表情で、壁の絵を疑視したまま動かない。
「お義母さんのとこ、行かなかったの?」
「行ったけど、帰ってきたのよ」
鬱も鬱、かなり追いつめられた表情だ、と僕は思った。
望美のまわりだけ、空気が重たく澱んでいる。
「一晩中そこにすわってたの」
「絵の中のおじさんに歌をうたってあげたの。
そしたらおじさんも、お礼に歌ってくれるっていうから、だから待っているんだけど、ちっとも歌ってくれないの」
僕はぎょっとして、指先からざわざわと血が引き潮になった。
「望美?」
望美は相変わらず一点をみつめ、微動だにしない。
僕は頭の中であれこれ思いを巡らせた。
寝かせようか、話をしようか、風呂に入れようか、それとも牛乳でもわかして飲ませようか。
「冗談よ」
にこりともしないで望美が言った。
「おじさんはただの絵だもの。歌なんて歌うはずないでしょう」
あっけにとられている僕など目に入らないように、望美は立ち上がってベランダにでた。
「まだ星がみえるのね」
望遠鏡をのぞきこむ。
白くて、嘘っぽくて弱々しい、と望美は言った。
「たよりないのね、月も星も」
一体どうなっているんだ。
僕はわけがわからないまま、とりあえず背広をぬぎ、手を洗ってコーヒーをわかせた。
望美はまだ望遠鏡をのぞいている。
モーニングカップにコーヒーをつぎ、ベランダをみると、望美は依然としてかがみこんでいる。
「望美」
声をかけたが返事をしない。
様子をみにでると、早朝のベランダは、五月といえどもかなり寒かった。
望美は、片目を望遠鏡におしつけたまま、声ももらさずに涙を流していた。
しゃくりあげもしないのだから、それはもう異様な緊迫感だった。
「望美!?」
うしろから抱きかかえ、望遠鏡から引き離そうとしてみたが、無駄だった。
体を固くして、子供のように強情に、望遠鏡にしがみついているのだ。
そして、力をこめた拍子に、えっ、えっ、と嗚咽を始め、
「このままでいいのに」
涙の下で、苦しそうに望美は小さくそう言った。
嗚咽はたちまち号泣になり、身も世もなく泣いて無抵抗になった望美を、僕は無理矢理部屋に引きずりこんだ。
どうしたの、とか、泣きやんでくれ、とか力なく言ってみたが、何の反応もない。
僕はコーヒーを一口飲み、気持ちを落ち着けて、つとめて穏やかに、
「説明してごらん」
と言ってみた。
望美はびくっとし、泣きやんで顔をあげ、僕を睨んだ。
「お医者様の口調で私に物を言わないで」
敵意のこもった目つきだった。
「私は伊作の患者じゃないのよ」
望美は僕のカップをとりあげて、たっぷりのアメリカンコーヒーを一気に飲み干した。
さっきだって、
そう言いかけて、手の甲で乱暴に唇を拭い、憤懣やる方ない、という表情で 望美は言った。
「伊作は私を精神病者だと思ったでしょ。おじさんの歌を待ってるなんて、私がおかしくなったと思ったでしょう」
ほんとうはそんなんじゃないのに、言って、望美はまた泣き出した。
伊作はなんにもわかってないのよ。
ほんとうは、全然そんなんじゃないのにーー。
望美は訴えながら泣きじゃくり、上手く言葉をつなげられないもどかしさに興奮して、どんどん悲劇的な形相になる。
わかったよ、わかったから、と言って僕はそばにしゃがみ、望美が泣き止むのを待った。
「今、お風呂を沸かすよ。ゆっくりあったまって、それから朝ごはんにしよう」
望美は二時間も風呂に入っていた。
もともと長風呂だが、風呂のながさと彼女の元気はほぼ正確に反比例する。
憂鬱なら憂鬱なほど長風呂になるのだ。
しかし、風呂からあがると望美はだいぶ落ち着いていた。
「お義母さん、元気だった?」
ほんの挨拶のつもりで訊いたのに、望美はひゅっと眉間をよせ、素早く身構える。
「元気だったわ」
「お義父さんもいらしたの」
「お父さんも、お母さんもいて、二人とも元気だったわ」
これ以上この話はしたくない、という強い意思表示だ。
「そう」
僕は大人しく引き下がった。
「昨日の夜、伊作のお母さんから電話があったのよ。どうしてるかと思って、って」
母さんが?
今度は僕が身構える番だった。
しかし、望美の話はそこでとぎれ、望美はシャンパンでトーストを流し込んでた、
「食満くんの話をして」
と言った。
「食満くんとけんかしたときの話」
喧嘩かぁ。たくさんしたからなぁ。
僕が言うと、望美ははっきりした口調で、いちばん派手にやったけんかの話よ、と指定した。
話し終えると、そう。と言って、望美はまるで自分の思い出をたどるみたいに遠い目をする。
「歴史があるのね。伊作と食満くんには」
僕はどうこたえていいかわからずに、トーストをかりかりかじった。
「私、食満くん好きよ」
唐突に結論をひきだすと、望美はシャンパンを手酌でついだ。
僕がかき混ぜるのを待ってから、おもむろに口をつける。
「食満くんが伊作の赤ちゃんうめるといいのに」
あまりのセリフに、僕は絶句した。
そしてすぐ、母さんの電話の内容が見当ついた。
「母さんの言ったことは気にしなくていいんだ」
望美の表情が、みるみる張りつめていく。
「このあいだ、ユキちゃんも子供をつくりなさいって言ったわ。それが自然よって。
たこ医者もそう言った。でも、結婚するときだってそう言ったのよ。みんな変だわ」
どうしてみんな、赤ちゃん赤ちゃんって言うのかしら。
予想に反し、望美は泣かなかった。
「私はこのまんまでいたいの」
このままでいられるよ、と僕は言った。
でも昨日、お母さんがそれは我儘だって言ったわ。
そんなんじゃ伊作に申し訳ないって。伊作のご両親にだって申し訳ないって。
「そんなことないよ」
と言ってみたけれど、望美はもう聞いていなかった。
「それでお母さんとケンカして、泊まるのをやめて帰ってきたら、あっちのお義母さんから電話があったわ。
人工授精のこと、三反田さんに相談してみたらって」
望美は困りきった顔で、ほんとにみんなどうかしてる。と言った。
「どうしてこのままじゃいけないのかしら。このままでこんなに自然なのに」
僕は頷いた。
あんまりに必死な顔なので、頷く以外にどうしようもなかったのだ。
さっきまで気丈だった横顔が、もう、たよりなく歪んでいる。
白くて、小さくて弱々しい。
彼女を追い詰めているのは僕なのだ、と思った。
ひどくせつなかった。
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