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□7:水の檻
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遊園地なんて一体何年ぶりだろう。
私は入場券売り場のわきに立ってユキちゃんを待ちながら、まわりにいる家族づれやカップルに、にぎやかな若い女の子達を眺めていた。
本当は伊作も来るはずだったのに、今朝早く携帯が鳴り、慌ただしく出勤してしまった。
伊作の携帯が鳴った場合、たいていは入院患者の容態悪化で、老人病棟を主にうけもっている伊作にとって、それはつねに患者の死ととなりあわせだ。
患者が死ぬと、伊作はしばらくほっーとしたまま暮らすことになる。食欲もなくなる。
自分では、それはプロフェッショナルとして恥ずかしいと言っているけれど、私はそうは思わない。
逆にその患者の方を咎めたい気持ちになる。
あんな善良な伊作を悲しませるなんて。
ちょっと文句をつけたい気持ちになるのだ。
死ぬなら勝手に死になさい、伊作を巻き込むのはやめてちょうだい。
「望美」
やけに懐かしい声がして、振り向くと利吉さんが立っていた。
「久しぶりだね」
ジーンズにポロシャツ、その上にストライプのジャケットを羽織った利吉さんの横に、きまりの悪そうな表情のユキちゃんが立っていた。
「そこで偶然会ったんです。せっかくだから一緒にと思って」
こんなところに偶然一人で来る人がいるだろうか。
「こんにちは」
挨拶だけ妙に礼儀正しいユキちゃんの息子が、まわりの空気とかタイミングとか、一切を無視して大きな声をだす。
こんにちはっ
返事をするまで執拗に声を張りあげる、その無防備な自信に、私はうんざりしてしまう。
仕方がないので挨拶を返すと、その子は素早く私の右手にとびついて、指を握った。
「変わってないね」
「体はここにいるのに、心だけがどこかにトリップしてしまったみたいな、危うい感じがそのままだ」
「・・・・貴方も変わっていないわ」
私はユキちゃんに、どういうつもり、という視線を投げた。
「結婚したんだってね」
そう言った利吉さんを見て、私は少し気まずくなった。
私たちは入場券を買い、遊園地に入った。
ユキちゃんは、伊作のことを尋ねなかった。
遊園地とは不思議なところだ。
来たくなかった人間まで、つい軽率に遊んでしまう。有無を言わせぬ空気があるのだ。
私たちも順調に乗り物を制覇していった。
パラソルの下のテーブルで、私たちはピザとサイダーでお昼にした。
驚いたことに、この遊園地には缶ビール一つないのだ。
徹底して子供の側に立とうとする姿勢が健気だと思った。
「もうからくりを話してくれてもいいでしょう」
私はよけておいたピザのオリーブを楊枝でつつきながら、両方に向けて言った。
どちらもこたえない。
ここはやっぱりユキちゃんから攻めるべきだと思い、私はできるだけ軽い口調で、伊作が来ないこと知ってたんでしょ、と言ってみた。
「それで利吉さんを誘ったんでしょ」
ユキちゃんはとても真剣な顔をしている。
「そうです」
「どうして」
いいじゃないか、と言ったのは利吉さんだった。
「久しぶりに会えたんだし、楽しくやれば」
全然わからない。腑に落ちない。
ユキちゃんがどういうつもりだったのか、これじゃちっともわからない。
「ウォーターシュート、乗ろうか」
利吉さんが言った。
スピードがでる乗り物は小さい子が乗れないので避けていたのだけれど、本当は、私はウォーターシュートが一番好きなのだ。
弱点を知られているみたいで悔しかったので、私は返事をしなかった。
「乗ってきてくださいよ」
ユキちゃんが言い、利吉さんは立ち上がって私に微笑んだ。
ウォーターシュートはそこからすぐのところにあった。
実際、ピザハウスの隣と言ってもいい。
私は、なんだ、と思った。
なんだ、この人がウォーターシュートに乗ろうと言ったのは、たまたまそれが手近にあったからなのだ。
私は奇妙に愉快な気持ちになった。
「不思議だな、人妻なんだ」
座席に座り、安全ベルトをしめながら利吉さんは言った。
うん、と私は隣で頷く。
そのアングルからみる利吉さんは、昔、よくドライブに連れていってくれた頃の利吉さんだった。
「旦那、どういう人」
「優しい人」
そうこたえてしまってから、おそろしく憂鬱な気持ちになった。
優しい人、なんて、そんな風に軽々しく、一言で片付けるみたいな言い方、全然違うと思った。
伊作はもっとずっとーー。
私は困惑した。ずっと、のあとが続かない。
どういう人、と言われて、どう説明すればいいんだろう。
「久しぶりにみたな。望美の眉間の皺」
ブザーがけたたましく鳴り、がくん、と小さな衝撃と共に車体が動き始める。
私は握り棒につかまった。
「悪いことしてる訳ではないんだから、そんな顔するなよ。奔放っていうのが望美の魅力なんだから」
じわじわと上に登っていく緊張感と落下のスピード、急カーブでお弁当箱の中身のように片側に押し付けられるスリルと、勢いよくあがる水しぶき。
ウォーターシュートは本当に気持ちがいい。
車体が発着地に滑り込むと同時にあちこちでベルトを外す音がして、立ち上がるどさくさに紛れるみたいに、これからも時々会えるな、と利吉さんは言った。
「良い友達として」
良い友達。私は返事に窮してしまう。
地面に降りると、足元が微かにぐらついていた。
「ユキちゃんを責めてはいけないよ。旦那に頼まれたことなんだから」
階段を降りながら利吉さんは付け足すみたいに言い、私はびっくりして全身のうぶ毛が逆立った。
「旦那って誰の旦那」
出口に、ユキちゃんとその子供が待っていた。
「ね、誰が誰の旦那に何を頼まれたの」
「私が伊作先輩に頼まれたんです。利吉さんを誘うようにって」
ユキちゃんが言い、私は思考の根本から動揺した。
利吉さんとユキちゃんの子がメリーゴーランドでグルグル回っているあいだに、ユキちゃんは一昨日の電話の話をしてくれた。
伊作がかけたとんまな電話の話だ。
僕は明後日行かないことにするよ、って伊作先輩は言ったんです、とユキちゃんは言った。
「どうしてですかって訊いたんですけど、伊作先輩はこたえずに、それでお願いがある、って言うんです。
こんなお願いは変に思われるかもしれないけど、なんて前置きして、望美先輩の彼氏だった利吉さんを知ってるか、って訊くんです」
ユキちゃんは怒っているみたいにまくしたてた。
「それゃ知ってますよね。散々ダブルデートした仲ですから。そしたら伊作先輩、利吉さんを誘ってみてくれないか、って。びっくりしました。
何故ですか、って、訊いたら、このところ望美は不安定で、って言うので、私、そうですね、って同意して。そしたら伊作先輩、真面目な声で、彼氏を持つのもいいと思う、って言うんです。
ちょっと先輩、信じられます?私は即座に否定しました、もちろん。
でも、伊作先輩は笑って、僕じゃ駄目なんだ、って言ったんです。僕じゃ役不足なんだって、ご亭主がですよ?
かといってそのへんの男ってわけにもいかないし、なんて真面目に言うんです」
私は、体中の血が煮えくりかえるかと思った。
すぐ帰って、伊作をぐしゃぐしゃに殴ってやりたい、と思った。
そう思ったら涙がでて、目をギュッと瞑ったら、涙の粒がちぎれてとても熱かった。
許せない、と思った。絶対許せない。
帰ろうとした私の腕をユキちゃんが掴んだ。
「望美先輩」
今度は先輩が説明する番です、とユキちゃんは言った。
「どうしたんですか、先輩達上手くいってないんですか」
私は既にどっと涙が溢れだしていて、喉が熱く、大きな声を出して泣いた。
まわりの人がジロジロ見ているのがわかったけれど、そんなことはどうでもよかった。
今朝の携帯も仕組まれていたことなのだ。
伊作の食欲が落ないといいと思ったのに、患者を咎めたい気持ちにさえなったのに。
私はそばにあったユキちゃんの鞄を抱え、まずハンドタオルを、それから化粧ポーチとアドレス帳を、ヘアブラシと手鏡を、次々と地面に投げつけた。
だいたい利吉さんも利吉さんだ。
いくら誘われたからってのこのこ出てくるなんて大間抜けだ。
私はしゃがみこんでわぁわぁ泣いた。
ユキちゃんが隣で肩を撫でてくれたけど、泣き止むことはできなかった。
結局、私は生まれて初めて担架というものにかかり、医務室につれてかれた。
白くて固いベッドに移されたときは、何もかもどうでもよくなっていた。泣く気力さえない。
「絶対、伊作先輩を呼ぶわ」
ユキちゃんが興奮した口調で言う。
「どこにいようと絶対に呼びだす」
「それはあまり賢明ではない」
望美は情熱的というか、少し刹那的なんだ。
大丈夫、三十分もすれば落ち着くから、旦那なんか呼んで事を大きくしない方がいい。
解りきったかのような口調で利吉さんが言う。
「そういう問題じゃないんです」
キッパリとユキちゃんが断言した。
「これは伊作先輩の責任だって言ってるんです」
伊作が入ってきたとき、私は浅く眠っていた。
意識の遠くで、ユキちゃんが伊作を非難する声、伊作と利吉さんがお互いに、はじめまして、と言って挨拶する声が聞こえた。
伊作はゆっくりベッドに近づいてくる。
私は感覚を張り詰め、全身で伊作を感じようとした。
伊作の足音、伊作の気配。
「ごめん」
私の瞼にそっと触れて、伊作は聞き取れないほど小さな声で言う。
私が目を覚ましていることを知っているのだ、と思った。
まるで水の檻だ。優しいのに動けない。
伊作には私の気持ちが、私には伊作の気持ちが、こんなにくっきりわかってしまう。
利吉さんのことも、携帯のことも、私はもう伊作を責められない。
瞼に感じる伊作の指。どうしていつもお互いをおいつめてしまうのだろう。
「先輩、望美先輩」
ユキちゃんが私の足を揺すった。
「寝かせたまま帰るよ。車だから」
伊作が言い、私は震えた。こわいくらいだった。
はっきりと断言できる。
このとき私は、寝たふりをしたままでしか帰れなかった。どうしても。
体の下に伊作の手が滑り込んできたとき、伊作が私を抱きあげるより一瞬だけ早く、私は伊作の胸に顔を押し当てた。
伊作の体温。伊作の心音。
私は子供みたいな安心した気持ちになった。
私と伊作は一度も体の関係を持ったことがないけれど、伊作の体は私の体に、本当にさらっと自然に馴染む。
「じゃあ、私たちは電車で帰りますから」
利吉さんが言い、ユキちゃんが横からビシリと釘をさした。
「事情聴取は後日しっかりさせてもらいますからね」
車のなかでも、私はずっと寝たふりをしていた。伊作は何も言わなかった。
私達は湾岸道路をゆっくり走り、私は懐かしいマンションのことを、思った。
白い手摺のあるベランダ、絵の中のおじさん。
はやくうちに帰りたい、と思った。
私は寝たままドアをあける。
CDのから流れてくる音楽が、夕方の空にするすると溶けていった。
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