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□9:星をまくひと
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私はこのままでいたいのに。
周りはそれを許さない。
伊作は私を抱けないの。伊作は女の人を抱けないの。でも私達は互いをちゃんと想っている。
それがたとえ行動で表せないとしても。
ーーーと、つい最近の私だったら言いきれていた。
けれども今はわからない。
伊作は本当に私のこと好きなのかしら。優しい伊作のことだから無理をして私に合わせてくれてるんじゃないかしら。
考えれば考えるほど暗い方に傾いてしまう。
午前中、三反田さんのところに人工授精の相談に言った。
予約していた時間に行き、保険証を提出して初診者カードを書く。
カードには大きく、産科・婦人科、と書いてあり、それはなんだか初めてみる言葉のように奇妙で即物的だった。
「あれ、望美さん」
看護婦に名前を呼ばれてドアを開けると、三反田さんは驚いた顔で私を見た。
「外来でみえたんですか」
不思議そうに言い、ひどく形式的に、どうなさったんです、と尋ねてはくれたものの、その声にも視線にも、お医者様らしいニュアンスはなかった。
「ちょっとご相談があって。人工授精のことなんですけど」
瞬時にして、三反田さんの表情が硬直した。
「や、あの、ちょっと待って下さい」
慌てたような声。
「その、一緒に昼ごはんでも食べながら話した方がいいんじゃないですか」
「ごめんなさい。この後行くところがあるんです」
私はきっぱりと言った。
ちゃんと予約をとり保険証持参で手続きを踏んでここにいるのだ。
追い返されるいわれはない。
案内されたのは、小さな診察室だった。
ゆで卵をつくる機械みたいな照明器具、足のせのついた診察台、スツールが一つ、ビデが一つ。
「別に診察して下さらなくてもいいんです」
私が怯むと三反田さんは少し笑って、わかってますよ、と言った。
「向こうには看護婦がいますから」
忘れてたけど、ここは伊作の病院でもあるのだ。
私は自分の軽率を恥ずかしく思った。
初診者カードに善法寺望美と書いてしまった以上、いくら外来でも、伊作と関係ない人間のふりはできないのだ。
「さて、と」
三反田さんは右手の甲で眼鏡を持ち上げる。
「人工授精について知りたい、ということでしたね」
説明してくれるあいだずっと、三反田さんは別人のようだった。
落ち着いた口調はちゃんとお医者様らしくて、冷静さと適度の人間味を兼ね備えていた。
その豹変ぶりは、何だか感動的なほどだ。
ただし、説明は物凄くつまらなかった。
私が知りたかったことーー
どうやって、とか、どんなしくみで、とか、どのくらいのお金で、とかーー
には全く触れず、朝礼の校長訓話みたいな説明が延々と続く。
日本婦人科学会が発表した統一倫理基準によると、人工授精以外に妊娠の見込みのない夫婦しか、医師は施術できないことになっているんです、
と三反田さんは言った。
それで私は、三反田さんの解説が済むのを辛抱強く待ち、それから色々と質問をしなければならなかった。
三反田さんは一つずつ真面目に答えてくれた。
肝心なところでお茶を濁すのがたまに傷だが、少なくとも医療用語辞典程度には有益だった。
「何れにせよ」
話を結論づけるためというよりは、私の質問を打ち切るために、三反田さんは言った。
「まず伊作先輩とよく話し合うべきですよ」
うちに帰ると、何だかぐったりくたびれていた。
窓をあけて風をいれ、ピムズをジンジャーエールで割って飲む。
できれば伊作を巻き込みたくなかったけれど、こうなったら協力してもらうしかない。
どうせ一晩のことだ。
私はピカピカに磨かれた床に俯せに寝そべって、ベランダごしに夕方の空を眺めた。
懐かしくて清潔で安心な部屋の気配。
こうしていると、伊作に抱かれているみたいだ。
私そのままじっとしていた。
何て優しい部屋だろう。
伊作が帰ってきたとき、私は床でうたた寝をしていた。
肩に毛布をかけられて目が覚めた。外はすっかり夜だ。
「おかえりなさい」
朦朧とした意識のなかで言うと、伊作はにっこり笑った。
「ただいま。コロッケを買ってきたよ」
そういえばいい匂いがする。
夜ご飯を食べながら、私はまず子供のことからきりだした。
「一人くらい産んでもいいと思うの」
伊作は不思議そうな顔をする。
「どうしたの、急に」
「今日、三反田さんに教わったんだけど、冷凍受精っていう方法なら着床する確率が凄く高いんですって。
若いうちの方がいいみたいよ。四十歳になるとね、子宮への着床率が三、七%になっちゃうって言ってた」
「・・・・・四十歳って、ずっと先じゃないか」
「そうだけど」
私は口篭り、小さな声でぼそぼそと言った。
でも赤ちゃんを産んだら、お義母さんも私のことを認めてくれるかもしれないでしょ。
「・・・・・」
伊作はちょっと厳しい顔つきになる。
「でもね、望美。産んだら育てなくちゃいけないんだよ。犬を飼うのとは違うんだから、途中で放り出すわけにいかないんだ」
「随分、犬に失礼な言い方するのね」
伊作はため息をついた。
「僕はただ、そんなに簡単に子供をもつわけにはいかないって言ってるんだ。母さんのことなんて、望美は考えなくていいんだよ」
今度は私がため息をつくばんだった。
「でも、どこかで現実と折り合いをつけなくちゃいけないでしょう?」
私は食後の紅茶をいれ、私たちはどちらも無言のままそれを二杯ずつ飲んだ。
「明日の夜、何か予定ある?」
両親が食事に誘ってくれてるの、と言うと伊作は驚いた顔をした。
「どういうからくりなのかな」
私は説明した。
昨日実家に寄ったこと、両親が子供の催促し、それに応じたら母がとても喜んだこと。
「簡単なことよ。明日、病院の帰りにあっちに寄ってくれればいいの。一緒に食事して、それから一言だけ、子供のこと、真剣に考えていくって言ってくれればそれですむのよ」
できるだけ何でもなさそうに、私は言った。
「でも望美」
伊作が重々しく口をひらく。
「それは事実じゃないよ。望美の両親に、そういう嘘はつけない」
「またなの?」
私はいっぺんに体中の力がぬけてしまった。
「煮えきらないのね」
非難したつもりが弱々しいつぶやきになる。
「お願いよ。今度だけは言うとおりにして」
伊作は悲しい顔で私を見つめ、黙っていた。
お願い、と私はもう一度言ったが、伊作は答えない。
その時、私のなかで何かが弾けた。
「っ、どうしてよ!!!!ただ一言、言えば済むのに!!お母さんも納得してくれるわ!!!私を抱いて、なんて、そんなこと頼んでないじゃない、たった一言なのに!!!!」
「望美」
気がついたときには、そばにあったもの全てを伊作に投げつけていた。
紅茶の缶、茶こし、ミントの瓶、ティーコゼー、文庫本。
次々に投げつけながら、私は涙の流れにまかせた。
伊作は本当のことを言うのを怖がらない。
勿論私はそれが死ぬほど恐くて、言葉なんて本当のことを言うためのものじゃないと思っているのだ。
ものすごく悲しかった。
どうして結婚なんかしたんだろう。
どうして伊作を好きになんかなったんだろう。
「伊作は、本当は、私のことなんて好きじゃないんだわ、食満くんだけがいればいいんでしょう?食満くんは、食満くんなら抱くくせに、私は、私ばっかり、こんな、こんなにーー」
「望美!!!!」
伊作が後ろから抱き抱えるようにして私をおさえる。
そうされてみて初めて、私は自分が震えていることに気がついた。
自分でもコントロールができないまま、ますます泣き声が大きくなってしまう。
私はもう、伊作なしでは暮らせない。
「大丈夫だよ。大丈夫だからおちついて」
汗と涙で顔にべったりはりついた髪の毛を、伊作はゆっくりかきあげてくれる。
伊作の手のひらの、大きて乾いて優しい感触。
私はあんまりに切なくて、腕の中で身体をよじった。
「望美?」
「放して。もう平気よ」
堪らなかったのは伊作と寝られないことじゃなく、平然とこんなに優しくできる伊作。
水を抱く気持ちっていうのはセックスのない淋しさじゃなく、それをお互いにコンプレックスにして気を使いあってることの窮屈。
伊作が唇を腫らして帰ってきたのはそれから四日後の夜だった。
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