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□10:水の流れるところ
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昨日、僕は数馬の、怒りに震えた内線電話で婦人科の医局に呼び出された。

ただならぬ気配に慌てて駆けつけると、数馬の椅子に留三郎が腰掛けていて、そばに数馬がつっ立っている。


「伊作先輩」


頼みますから今すぐ食満先輩を追い払って下さい、と数馬は言った。
怒りですっかり青ざめている。


「何したんだ」


留三郎は涼しい顔でそっぽを向いた。


「別に。ちょっと悪戯しただけだ。たいしたことじゃない」


数馬は激昂する。


「ここは病院ですよっ、乳幼児みたいなマネされると迷惑です」
「何したんだ」


僕はもう一度訊いた。
数馬の悲劇的な形相からみて、余程ひどい事をしたに違いなかった。


「これだよ」


留三郎が顎で示したのは、机の上の、ゴムのおもちゃだった。
毒々しい黄緑色で、カエルの形をしている。


「冗談だろう」


僕は数馬と留三郎とを交互に見た。
どちらもぶすっと黙り込んでいる。
あまりの馬鹿馬鹿しさに、全身の力がぬけていく。


「信じられないよ」


それゃあ誰にも苦手なものはある。
数馬の場合それは蛙で、昔から、女より怖いと言っていた。
しかしだからといって、これが本気になって怒るほどのことだろうか。
それに留三郎も留三郎だ。
こんな悪戯をしにわざわざ病院まで来るなんて。
二人とも仏頂面をしている。
僕は心底呆れて、呆れついでに少し笑った。


「上等だよ」


二人とも上等な乳幼児だ。
僕が怒るより先に笑ったことで、留三郎は我が意を得たりという顔をする。


「二人ともどうかしてます」


俯いて数馬が言い、僕は数馬が泣き出すのじゃないかと思った。
さっきまで青ざめていたのに、いつのまにか真っ赤になっている。


「林檎だな、まるで」


留三郎が独り言のように言い、僕が咎めるまでもなく、数馬は自分で留三郎を睨みつけてから、


「望美さんがおかしくなるのも無理ないですよ」


と苦々しげに言った。


「僕は望美さんに同情します」


望美のことを持ち出されて不愉快だったのは僕だけではないらしく、どういう意味だよ、と詰め寄ったのは僕ではなくて留三郎だった。


「月曜日に望美さんはここに来たんです」
「知ってるよ。望美から直接きいた」
「話の内容もですか?」
「勿論」


僕はチラッと留三郎を見たが、今更席をはずせと言ってもはずすような奴ではない。


「人工授精のことだろう。若いうちの方がいいとか、冷凍受精なら確率が高いとか」


それは僕のした解説です、と数馬は言った。


「望美さんの相談といいますか質問は、そういう一般的なことじゃないんです。もっと具体的で、何ていうかひどく突飛な質問でした」


数馬は真剣な顔で少し黙って、言いにくいな、と言う。


「言えよ」
「・・・・」


こういう時の数馬は全く手間がかかる。
五分ほど押し問答した挙句、ようやく口をひらいた。



「望美さんの相談っていうのはつまり、言いにくいんですけどその、伊作先輩の精子と食満先輩の精子を、あらかじめ試験管で混ぜて受精することは可能かって。
そうすれば、その、みんなの子供になるからって」



唖然とした。
そんな話があるだろうか。
一分くらいの間、誰一人口をひらけなかった。
そしていきなり、留三郎が僕の顎を殴ったのだ。
遠慮のかけらもない殴り方だったので、僕は机に倒れ込んで書類の山を床にぶちまけた。


「だから言ったじゃないか。望美ときちんと話をつけろって」


怒りに震えながら留三郎が僕の胸ぐらを掴む。本気で怒っている顔だ。
口の中が切れて、鉄の味が口内に広がる。


「そんな風に相手を追いつめるんなら、伊作は望美と結婚なんかするべきじゃなかったんだ」


その時、僕は心底後悔した。
もっと、もっと早く、望美と話し合うべきだった。
ただ、留三郎はただの友達で僕が好きなのは、愛しているのは君だけだ、ただそう言えばよかったのに。
僕が、ここまで、こんなドン底まで望美を追いつめていたのだ。
じゃないと、こんな発想なんて辿りつかない。
彼女なりに考え抜いた結果なんだろう。
数馬に相談しにいく彼女の姿を思い浮かべて胸が締め付けられた。







駐車場に車を停め、シートベルトを外してCDをだし、ルーフをしめてエンジンを切る。
望美は車から降りようとしない。


「望美」


望美はほとんど喋らなかった。
音楽が溢れてくる窮屈な空間で、ただ黙って眉間をよせていた。


「望美」

「望美、ごめん」


気がつくと、望美はぐしゃぐしゃに泣いていた。
顔を歪めて子供のように嗚咽している。

ごめん、もう一度言うと望美は両手で顔を覆ってますます激しく泣きじゃくり、苦しそうに空気を吸い込みながら途切れ途切れに、あやまらないで、と言う。


「どうしようもないわ。もうどうしようもない」


本当に痛々しい泣き方だった。
胸が痛いくらいに締め付ける。


「望美」


目線を合わせて、涙に濡れた頬を両手で包む。
一息ついてから僕は真正面から望美に向き合う。



「望美、好きだよ」

「留三郎じゃない、望美、君のことを愛してるんだ、他の誰よりも」



心の底から想いを言葉にして伝えた。
そういえば僕は一度でも望美に"好き"だと伝えたことはあっただろうか。
想いを口にした途端に改めて実感した。
ーー僕は望美が好きだ。


無性にたまらなくなって、抱きしめようとすると、逆に望美が僕の首にしがみついてきた。
泣きながら、びっくりするほど強い力でーー。
呆然としている僕の右の頬や首筋が、望美の息と涙で痛いほど熱く濡れていく。
望美は両手で僕の髪の毛を鷲掴みにし、そのまま随分ながいこと泣いていた。


「伊作」
「うん」
「っ、私、私も、私もね」
「うん」
「い、伊作が、好き、っ」
「・・・・・うん」


首に噛み付かれているみたいで、僕は全ての思考が止まり、腕の中でこんなにも無防備な、望美の柔らかい身体をじっと抱いていた。
永遠のように永い、閉ざされた時間だった。










「落ち着いたみたい」


身体を離すと望美はそう言って、ちょっと照れくさそうに目だけで笑った。


「私ずっと勘違いしてたのね、伊作が同性愛者なんて、よく考えると可笑しいわ」


さばさばと言い、ベタベタになった顔を手のひらで拭う。
車から降りると夜風はサラサラと涼しく、望美の涙でずぶ濡れになった首筋に、優しくからまってふいていった。



部屋に戻ると僕はシャワーを浴び、ベランダにでて星を眺めた。
望美は不自然なほど大きな声で鼻歌を歌っている。
いつもならウィスキーを片手に傍にくるのに、今夜はさっぱり寄り付かない。
僕のほうでも部屋に入るタイミングを掴みかねていた。
あんな風に抱き合っただけで、お互いに照れていることが可笑しかった。

僕はガラスにうつった自分の姿をまっすぐ見て、指で右頬に触れてみる。
白くて細い、望美の指の感触を思い出そうとする。
それから、熱くしめった泣き声や唇もーー。


僕は性交が出来ない。その理由が自分の極度な潔癖症だということも自覚している。

けど、望美は違う。
生まれて初めて、僕は今日、


ーー人に触れたいと思った。


相手は勿論、望美だけだ。
僕は変われる。変わることができる。
そう自信を持って、言えるようになったのだーーー。








「一時期はどうなることかと思いましたけど、丸く収まってよかったです、本当に」
「全くだ」
「本当、私達がどれだけ心配したと思ってるんですか?ねぇ、食満先輩」
「あぁ、望美にかんしては、俺を伊作の恋人扱いするしよ、冗談キツいぜ」



「仰る通りで・・・・」
「本当に迷惑をかけました」



数日後、僕達の部屋にはユキちゃんと留三郎が訪れていた。
二人ともソファにふんずりかえって、非難をするようで、でもどこか安心した目で僕達を見つめた。
僕と望美は二人の前で正座をして小さくなる。
二人には、本当に迷惑をかけた。


「望美先輩」


ユキちゃんがふと、真面目な顔になり弱々しい声で呟く。
望美は何、と首を傾げる。


「今、幸せですか?」


本気で望美のことを心配するように、ユキちゃんは言った。
ユキちゃんをじっと見つめたまま望美は一息ついてから、確信に満ちた声で、



「幸せよ」



と、柔らかく微笑んだ。

そうですか、ユキちゃんは泣きそうに安心しきった表情で望美の背中に手を回した。


「一件落着、てことか?」
「そうだね」


僕と留三郎は互いに顔を見合わす。
留三郎は嬉しそうに笑い、机の上に置いてあったシャンパンを掴む。
そして部屋全体を見回して、


「やっと独立した夫婦二人に」


と言った。
僕はグラスを持ち上げて、改めて部屋の中を見回す。
思い返せば、色々なことがあった。
楽しかった時間よりも苦しい思いをした時の方が多かったかもしれない。
けれども僕は望美との結婚を悔いたりなどはしないし、するつもりもない。
僕達は始まったばかりなのだ。
これから、まだ沢山の時間がある。



その時、僕は不意にあることを思い出した。
そういえば僕達はまだ新婚旅行へ行っていない。
僕の仕事の予定が合わず、先延ばしにしていたのだった。


「新婚旅行は何処に行こうか」


僕が言い、目の前で望美が、いかにも楽しそうに微笑んだ。
そして、夜空を指さして言った。



「そうね、夜空で一等にきらきらひかるあの星に行きたいわ」



彼女がの指差す星の名前はーーー。




End

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