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□花曇りキャンディタフト
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「止めろっ!!!!!止めてくれ!!!」

「嫌っ!!!離して、離してよ!!!」


日常というものに俺はもう、掛け離れた生活を送っていた。
常に俺の隣には日常を"非"日常に変えてしまうものが存在していた。遠の昔に無くしてしまった平穏など、今の俺にとっては取るに足らないものばかりで。今の状況だって一般的に見ればそれはもう、異様な光景だと思う。
カッターナイフを握り締め、今にも己の首に突き刺そうとしている女と、それは必死になって止める男。
まるでサスペンスドラマのワンシーンのような一コマからは正常さは微塵にも感じられない。


「頼む。望美、止めてくれ。お願いだ」

「嫌、嫌嫌嫌嫌嫌嫌ぁっ!!!!なんで、どうして、離して、嫌、」


常軌を逸し、狂騒状態の望美の身体を押さえ込み、無理矢理、刃を奪い取る。
手元にどうしようもない喪失感を感じた望美は、より一層声を張り上げて喚いた。幾重か刃物のやり取りをしたせいか、望美の手も、俺の手も血で赤く染まっていた。
互いの服にもそれは根強くこびり付いて、まるで赤い模様の服を着ているかのようにも見えた。

奪い取ったカッターナイフを望美の手の届かない場所に移動させてから、彼女の動きを封じ込めるように俺は強く強く望美の身体を抱きしめる。
反抗して望美は俺の背中を空いている両手で殴った。けれども俺は抱きしめる力を緩めることはなく、望美の身体を締め付けた。


「大丈夫、大丈夫だ。もう、何も怖いことなんてない。大丈夫だ」


諭すように背中を摩ると、望美は一瞬大きく震えて、先程の乱心が嘘だったかのように、落ち着きを取り戻した。
俺を殴りつけていた手は弱々しく俺の背中に回り、顔を俺の胸に押し付けて静かに泣いた。


「っ、......あ、...うっ、....」


破れたカーテンに、崩れ落ちたテーブルクロス。割れた食器に、横投げにされた植木鉢、床にばらまかれた食べかけの夕食。
窓ガラスが割れなかったのは不幸中の幸いだった。荒れ果てた室内を見回してから、腕の中の望美の頬を優しく撫でた。


こんなんじゃない。こんなはずじゃ、こんなはずじゃなかった。
俺達の未来はこんなに薄汚れたものではなかった。
もっと明るく輝いていた筈なのに。


嫌悪の波に呑まれて、過去の記憶を辿る。一番に頭を過ぎるのは今では見ることは叶わない望美の笑顔。
照れたような表情で俺の名を呼んで、窓から覗く月にだって適わない程の笑顔を向けている。
記憶の中ではにかむ少女は確かに望美なのに。目の前の望美は今にも霞んで消えてしまいそうだ。

過去の、忌々しいあの事件が彼女の全てを変えてしまったのだ。
あの悪夢のような日から望美は毎日、死に道を探している。
あの地獄のような日から俺は毎日、その道を阻んでいる。
毎日が絶望の淵であり、修羅場であった。


幼い頃からずっと傍に居た。これからだって傍に居る。
傍にいて、彼女の自殺を止めることしか今の俺にはできない。こんなか弱い少女一人すら救うことができないのだ。

でも俺は生きて欲しい。彼女に生きていて欲しい。
嫌われたっていい。殴られたっていい。ただ、望美がこの世の中に存在してくれるだけでいい。
望美が居なくなった世界など何の価値も持たない。俺のため、なんて我儘は望まない、ただ生きてさえくれればいいのだ。


「望美........」


存在を確かめるようにもう一度、彼女を抱き締めた。
仕方がない。愛してしまったのだ。
目の前の少女をこんなにも愛してしまった。愛してしまったからには彼女の傍を離れる訳にはいかない。

カーテンの隙間から差し込む月光が冷たく俺達を照らす。
黄金色に輝く月は彼女の泣き顔さえもより一層に映えさせた。満ちた月は欠けるのを待つばかり。完全体など月ですら保つことができない。

それでも尚、焦がれるのを止めずにいられない。


「あぁ、望美」






今夜も月が綺麗だ。(愛しているよ)








It is near and is far.
(近くて遠い)
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