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□晴天ハルジオン
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どうやら俺の実体はないらしい。


しかしだからと言って特別困ったことは何もなかった。
身体が透けているわけでもなく、物や動物に触れることだってできたし、脚だってしっかりと地面についていた。

ただ一つ。ただ一つ不便なことがあると言えるならば。
それは周りの人間に俺の存在を認識してもらえないことだった。彼らからすれば俺の姿は見えないし、声は聞こえない。云わば、彼らにとって俺は無に値していた。もういない人間。いてはならない人間。

けれどもたった一人。一人だけ。俺の存在を認識できる人物がいた。
それが望美だった。

はてこれは不幸中の幸いと言ってもいいのだろうか。
望美だけが俺を認識できるという事実は彼女にとって好影響を与えるのだろうか。今の俺にそれを断定することできない。しかし、俺という存在が彼女の命を繋ぐストッパーになっているのも確かだった。


皮肉なものだ。


俺のせいで彼女は死を望んでいるのに俺のせいで彼女は死ねないのだ。
あぁ、どうか自分を責めないでくれ。責めるのならばどうか不甲斐ないこの俺を。俺の自分勝手な行為でこれほどまでに君を苦しめ、追い詰めてしまっているとは。けれども許してくれ。後悔はしていない。もし過去に戻れたとしても俺は同じ選択をするだろう。だが、それは決して君のせいではない。


「三郎次」


望美が名前を呼ぶ。感情の起伏がない声だった。
機械音のような冷たい声が、背中を震わせる。無表情でただじっと俺の顔を眺める。
どうした、何気なく繕って笑顔を返す。望美は笑わなかった。


「三郎次」


もう一度、返事を返しても望美は俺の名を紡ぐ。
三郎次、三郎次、三郎次三郎次ーー。
壊れたスピーカーのように何度も、何度も。俺が応えても聞く耳を持とうとしなかった。俺は混乱した。
どうしたんだ、一体。俺は此処に居るというのに。まさか、俺が視えなくなってしまったのか。


「さぶ、ろうじ……」


弱々しい声がこの狭い一室に響く。
望美は両眼に涙を滲ませた。
ホロリ、とまるで花びらが散るかのように、静かに望美は涙を流した。
それは儚げで、脆くて、酷く美しかった。


「どうして返事をしてくれないの、三郎次」


ひしひしと望美の深い悲しみが伝わってくる。
返事ならしたじゃないか。何度も。望美こそ、どうして返事をしてくれないんだ。俺の声まで聞こえなくなってしまったのか。


「どうして目を覚まさないの」


涙で濡れた顔で一心に俺を見続ける望美。
いや、正確には望美は俺を見てなどいなかった。この、残像の俺を透かして、その先の俺を見ていたのだ。
病室のベットの上で、未だに目覚めない俺を。俺の実態を。

無機質な機械に囲まれて、身体中に様々なコードに繋がれた自分の姿は、とても痛々しかった。
呼吸器が無いと、己で呼吸することもままならない今の俺を望美はただ、縋る様に見つめていた。


「どうして、まだ眠っているの」

「もう、こんな世界には戻ってきてくれないの?」

「ねえ」

「三郎次が、目を覚まさないのなら、私も死ぬ」


それだけは駄目だ。
力強く、釘を刺す。それだけは絶対に許すことはできない。
頑として言い放った俺を、失望したような目で望美は見上げた。


「どうして?どうしていつもそうなの」

「私のこと、嫌いなの?」

「違う」

「嫌いなんでしょう?嫌いだから一緒にいたくないんでしょう」

「違う」

「違わない。三郎次は私のこと嫌いなはずだもん、だって、三郎次を殺したのはーー」

「違うって言ってるだろっ!!!!」


カッと頭に血が昇って、クラクラ眩暈がした。気付いたら、大声で怒鳴り散らしていた。
今にも溢れ出そうな涙の膜を溜めて、望美は怯えていた。
あぁ、脆い。望美は脆すぎる。ちょっと声を荒らげただけで、すぐに恐縮してしまう。
弱々しい。望美はきっと一人では生きてはいけない、そういう人間なのだ。


「ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」


必死に俺に縋り付いて謝る望美。何かに怯えるように、ただ懸命に許しを請う。
俺のシャツを握り締めた腕はとても頼りない。


「ごめんなさい三郎次、私のせいで。ほら、や、やっぱり怒っているんでしょう?私のこと憎んでいるんでしょう。ごめんなさい、ごめんなさい、でも、嫌いきならないで、わたし、三郎次に、嫌われたら、」


生きていけない。


それは、あくまでも仮説、というわけではない。
それは、絶対的な未来だ。
望美の言葉に嘘偽りはない。俺が此処で彼女を否定してみたらどうだろうか。
一寸の迷いもなく、望美は自ら生を絶つだろう。


「嫌いになんか、なるわけないだろ」

「ほ、ほんと?」


(嫌いになんか、一生なれるものか)

散った花びらが、時を戻るかのように望美は綻ぶ。
安心したような表情が顔に浮かんだ。


「ずっと傍に居るよ」


その直後だった。
今さっきまではにかんでいた望美が一瞬で消えた。
目の前にいるのは、無表情で恐ろしいほど無口な望美だった。


「でも目は覚まさないじゃない」

「…望美?」

「あれから、一年もたってるのに、まだ起きないじゃない」

「どんなに話しかけても応えてくれないし、どんなに顔を覗いてもその瞳に私を映してくれない、そんなの死んでしまっているのと一緒だよ」

「でも、俺の心臓は、まだ動いてる、死んでなんか、ない」

「三郎次は死んでしまった。あの時、私を庇って死んでしまったもの」


先程まで弱っていたのが嘘だったかのように望美は話し続ける。
こういう時の彼女はまるで二重人格のようだ。弱弱しさよりも、尖った激情が目を引く。
こうなった望美を止めることは容易くない。


「三郎次は確かに死んでしまった!!!私は見た!!三郎次は、私を庇って、あの男に刺されたんだから!!」

「望美っ!!」


強く強く抱き締める。
大丈夫。大丈夫だから、そう言って落ち着かせる。


「もう、無理。苦しいの。罪悪感に押しつぶされて、生きているのが辛い。私のせいで、三郎次がこんな状態になってしまった、その事実に耐えられない」

「…望美」


俺のせいなのだ。
彼女が、こんなにも苦しんでいるのは俺のせいなのだ。
俺という存在が望美に大きな十字架を背負わせてしまっている。

きっと望美は思い出してしまうのだろう。
俺が視界に映る度に、あの日のことを思い出してしまうのだ。その度に後悔と懺悔に苛まれる。俺のせいなのだ。
こんな状態になってでも尚、彼女を苦しませることしかできないのなら。



消えてしまおうか。



潔く、成仏してしまおうか。




そうすればお前はもう、苦しまなくて済むのだろうか。
もう、一人で泣いたりしないのだろうか。
それならば、俺はーー。










Dark clouds is shrouded
(暗雲が立ちこめる)



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