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□瞼を落として世界を閉める
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私には兄がいた。
孫兵ではない、血のつながった本当の兄が。
でも、今はいない。兄は生まれながらにして病弱であったのだ。
私がまだ立つこともままならないうちに、兄は早くしてこの世を去った。


そう、遠い昔に母に聞いた。







「どうしたんだい、望美。浮かない顔をして」

「ううん、大したことじゃないの。ただ‥‥」

「ただ?」



夕暮れに照らされた2つの影法師が真っ直ぐと伸びる帰り道。
白でも黒でもない曖昧な空色はまるで今の望美の心境を表しているようだった。
ううん、なんでもないの。ただ、本当の兄さんのことについて考えていただけ。
なんて仮でも今の兄である孫兵本人を前にして言えるわけもない。
心中を察せられないよう、最もらしい言い訳を返した。


「ただ、進路のことについて考えていただけだよ‥‥」


あながち嘘でもなかった。
実際に私は進路で悩んでいたからだ。私達が通う中学校では殆どと言っていい程、すぐ隣にある地元の高校へ進学する生徒が多い。
今の今まで私もそのつもりだった。けれども一校だけ、どうしても気になる高校があったのだ。校内の雰囲気とか、授業の内容とか、整っている設備とか、全てが自分の思い通りな高校があった。
しかしそこは私立だからお金がかかる。家から距離も離れているので寮生活になる。
両親に反対されるのが目に見えていた。


「あぁ、この前行った全寮制の女子高?」

「‥‥うん」

「隣の県だろ、望美。母さん達が反対するのも無理ないよ」

「でも、隣の県って言ったってそんなに遠くないよ。電車で三十分くらいだもの」

「遠いよ。第一望美が家を出て生活するなんて無理だ」

「無理無理言わないでよ。じゃあ孫兵も一緒の学校に来てくれればいいのに」
「僕に女子高に通えって言うのか?無茶言わないでよ」


孫兵に此処まで言われてしまったら諦める他ない。
両親ならまだしも最後の砦の兄に反対されたなら大人しく地元の高校へ行くのが無難で正しいような気がする。
そうだ、そうだよ。県立高校なら学費も私立と比べたら全然安いし、地元なら交通費もかからない。そのほうが親孝行になるし、周りに迷惑かけないじゃない。
無理矢理自分を納得させて、これが正しいのだと、自分は間違っていないのだと、思い込むようにした。


「望美、女子高は無理だけど共学の学校なら何処でも一緒に行ってあげるよ」


額縁の中の絵画のように孫兵は微笑む。
全く、本当に綺麗な顔立ちしてるんだから。こんなの本当の兄妹じゃないなんて誰でも一目で分かる。
孫兵の浮世離れしたその容姿には感嘆の息が洩れるけれども、それと同時に酷い劣等感に襲われる。彼は美し過ぎるのだ。
孫兵と私では何もかもが違い過ぎる。


「……うん」


他人には滅多に向けることがない笑顔。
その笑顔に押し込まれると私はいつも何も言えなくなってしまう。
彼の言うように、家から出て一人で生活するなんて私にはできっこないのだ。
孫兵がいないと何もできない。何時からかそんなレッテルを周りから貼られてしまった。
今更その紙切れ一つ剥がすことすら出来ない。














「まだ悩んでるの」


その一声でハッと現実に引き戻された。
風呂上がりの孫兵が濡れた髪をタオルで乾かしながら立っていた。
そのまま私の隣に移動して、ベッドに腰掛ける。不意にシャンプーの香りが鼻を掠めた。淡いラベンダーの香り。


「帰りの時からずっと腑に落ちないような顔をしている。夕飯の時だって上の空だった。結論はついたじゃないか。まだ悩んでいるのか」

「だって……」


諦めの悪い私を見て、孫兵は溜息をついた。
孫兵が呆れることもわかる。この選択が家計に影響を与えることだって分かってる。
だからといってそんなすぐに諦められることでもなかった。多分、自分で思っている以上にきっと私はこの高校に惹かれているのだと思う。


「望美」


膝の上で握りしめた掌にそっと孫兵の手が重なる。


「悩むことは悪いことじゃないと思うよ。むしろ悩むべきなんだと思う。自分の将来を左右する進路のことだからね。……でも自分にとって何が最善なのかを見誤ってはいけない。ただその学校に行きたいってだけで進路を決めるのだとしたらそれは賢明とは呼べないよ」

「うん。それは分かってる」

「将来、やりたい事が決まっててその道を極めると決めたのならの進路に進めばいいさ。でも望美はまだ先がはっきりと見えているわけではないだろう?なら今専門的なことを学ぶより、普通の進学校に進んでやりたいことを見つければいいんじゃないかな。その方が取り消しも利くだろ?」


「うん……そう、そうだよね」


「それでもその道に進みたいって思ったら大学で学べばいい。その女子高、大学もあるみたいだから」


孫兵の言葉に顔を上げる。
知らなかった。あの学校、大学まであるんだ。流石は私立。エスカレーター式なんだ。
オープンスクールまで行ったくせに何も知らなかった。
孫兵は何で知っていたのだろう。もしかして調べてくれたのだろうか。
いや、そうに決まってる。孫兵は私のためにわざわざ調べてくれたのだ。
孫兵はそういう兄だ。
自分のことよりも妹の私を気に掛けてくれる、こころ優しい兄なのだ。


「もう悩みの種はなくなった?」


私の顔をのぞき込むと孫兵はまたあの大変美しい笑顔を浮かべた。
あぁ、やっぱり綺麗だ。そして到底敵わない。
見様見真似で私は不器用に笑ってみせた。


「うん。ありがとう、私、地元の高校にする」

「そう。じゃあ一緒に頑張ろう。……望美が一緒じゃないとつまらないからね」


ベッドから立ち上がって孫兵は無造作に捲れていた布団を丁寧に私にかけてくれた。
横目でちらりと時計を盗み見ると、思っていたよりも時刻が進んでいて驚いた。どれくらいの間、悩んでいたのだろうか。
隣のベッドで孫兵も寝床の準備をしている。
年頃のわりに私達は同室であった。幼いとき孫兵が無理を言ってこのようになった。孫兵の最初で最後の我儘だったと思う。

風邪を引かないように布団を首元までしっかりと被せるのを確認してから、ゆっくりと孫兵の顔が近付いてくる。
そのまま瞼に感じる温もり。


「……孫兵」

「いいんだよ、よく眠れるおまじないだから」

「もう子供じゃないのに」


いつまで経っても私を子供扱いする兄に反抗してみるも、呆気なく流されてしまう。
照明も暗くなり、完璧に寝る体制に入ってしまった。


「おやすみ」


暗闇のなかで孫兵が囁いた。
それを合図に私の瞼は重くなり、しだいに眠気が襲ってきた。
眠気と戦いながら曖昧な返事をし、悩みの種がすっかりなくなった私はすぐに意識を手放した。





「…………約束、守ってね望美」









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